居酒屋持ち込み拒絶に対する善意のアドバイスの気持ち悪さ

活字中毒R。にて『人生の旅をゆく』(よしもとばなな著・幻冬舎文庫)から引用されている

 もしも店長がもうちょっと頭がよかったら、私たちのちょっと異様な年齢層やルックスや話し方を見てすぐに、みながそれぞれの仕事のうえでかなりの人脈を持っているということがわかるはずだ。

活字中毒R。

 居酒屋で土曜日の夜中の一時に客がゼロ、という状況はけっこう深刻である。

 その深刻さが回避されるかもしれない、ほんの一瞬のチャンスをみごとに彼は失ったのである。

活字中毒R。

早い話、居酒屋で『店側からの公式な許諾』のもとにワインの持ち込みをしようと試みたところ店長から公式な許諾を与えることを拒絶されたという体験談に続く部分なのですけど、読んでいて非常に気持ちが悪いわけです。そして、この気持ち悪さがあるからこそ、

  僕はこのエピソードを読んで、「自分がこの店長だったら、どうしただろう?」あるいは、「この店長は、どうするのが『正解』だったのだろう?」と考え込んでしまいました。

活字中毒R。

をはじめとして、この記事を参照する形で様々な反応が広がっているのではないでしょうか。

では、上に挙げた部分のどこに気持ち悪さがあるのでしょう。私個人としては、論法に気持ち悪さが存在しているように思います。注目したいのは、上に挙げた部分が「善意のアドバイス」という形をとっている点です。つまり、「このやり方にしないのは馬鹿じゃん?」と親切にも教えてあげているという形をとっているわけです。しかし、それはいったい誰に対する親切なのでしょう。

「店長はもう少し頭を使ったら?」というニュアンスが含まれている点から、一見すると、持ち込みを拒絶した店長に対する親切のようにも感じられるかもしれません。もしもその店長が「よしもとばなな様御一行がその人脈にものを言わせて将来新たなる客を大勢引き連れてきてくれるであろう可能性を最大限に生かす」ことを最優先の目的に店長という立場に従事しているのならば、「店長はよしもとばなな様御一行に居酒屋店内でのワイン持ち込みについての公式の許諾を与えるべきである」というアドバイスはとても的を射たものであり、「善意」や「親切」に基づくものとして扱うことに何ら違和感はないように思います。

しかし、もしも店長にとっての最優先の目的がそれであったならば、店長が余程の馬鹿でもない限り、よしもとばなな様御一行にワイン持ち込みの公式な許諾を当然与えていたことでしょう。ところが実際には店長はそれを与えることを拒絶しました。とすると余程の馬鹿であったということなのでしょうか。しかしですよ。余程の馬鹿にアドバイスすることにいったいどのような意味があるのでしょうか。相手にアドバイスを受け入れるだけの賢明さの余地を仮定しない限り、アドバイスは成立しないではないでしょうか。

だとすると残る可能性は、店長にとっての職務における最優先の目的が「よしもとばなな様御一行がその人脈にものを言わせて将来新たなる客を大勢引き連れてきてくれるであろう可能性を最大限に生かす」こと以外にあったということになるでしょう。しかし、もしそうだとすると、今度は「店長はよしもとばなな様御一行に居酒屋店内でのワイン持ち込みについての公式の許諾を与えるべきである」というアドバイスは店長にとって的を射たものとはならないわけです。つまり、このアドバイスは店長に対してなされたものではないと。

それで、話はふりだしに戻るのですけど、そのアドバイスはいったい誰に対する親切なのでしょうか。

もはや、どこかにいるかもしれない「よしもとばなな様御一行がその人脈にものを言わせて将来新たなる客を大勢引き連れてきてくれるであろう可能性を最大限に生かす」ことを最優先の目的としている人たちに対するアドバイスと見なすくらいしかできないのではないでしょうか。しかし、そのような人たちはいったいどこにいるのでしょう。本当にいるのでしょうか。本当にいるかどうかも分からない人たちに、なぜ親切にもアドバイスをしてあげているのでしょう。また、もし仮にそのような人たちがいたとして、その人たちにそのようなアドバイスは本当に必要なのでしょうか。わざわざアドバイスしなくても、当然アドバイスが述べているような行動をとっているのではないでしょうか。

しかし、だとすると、このアドバイスの意義はいったいどこにあるとよしもとばななさんは主張されているのでしょう。突き詰めていくと、そのあたりが見えなくなってしまうがために「善意のアドバイス」形式の主張には論法的に気持ち悪さが生じてしまうのではないでしょうか。

ならば、このアドバイスを筋の通る議論の一環と見なすのではなく、宗教的な教えの一環と見なすのはどうでしょう。つまり、『あなたはこれまでの目的を捨てて「よしもとばなな様御一行がその人脈にものを言わせて将来新たなる客を大勢引き連れてきてくれるであろう可能性を最大限に生かす」ことを居酒屋の店長としての職務における最優先の目的としなければ幸せになれない』という教えです。ここでいう「幸せ」とはその宗教がめざす最終到達地であって、その到達地を目指したい人はその宗教の教えに従えばいいわけです。しかし、その到達地としてまず見えてくるのは「よしもとばなな様御一行が居酒屋で気兼ねなくワインを持ち込んで大いに楽しめる」という状況であって、それって、よしもとばなな様御一行と無関係な人がめざしたいと考える「幸せ」の形にどれほど合致しているのでしょう。そのあたりの乖離が宗教の一環として見た場合においても、気持ち悪さを生じさせる原因になっているような気がします。

なお、似たような「善意のアドバイス」系の主張はネットでもよく目にすることがあります。たとえば、「無断でリンクをされたくないならば、無断リンク禁止宣言をすることはかえって禁止反対派からの無断リンクを招くことになるから、宣言をするのは賢明ではない」というようなものなどもその一例といえるでしょう。いったい誰に対する親切なのでしょうか。

ブコメレス

いったい誰に対する親切なのだろう?

はてなブックマーク - kana-kana_ceoのブックマーク / 2009年8月16日

「善意のアドバイス」って形の上では「このやり方を採用しないことはお前にとって都合が悪い(にもかかわらずこのやり方を採用していないのだから、お前は馬鹿だ)」という主張なわけですが、問題の根本は、「『お前の都合』を俺は完全に理解している」との(ある意味、非常に上から目線の)主張が自動的に含まれてしまうという点にあるのかもしれません。つまり、「『お前の都合』を俺は完全に理解している」という前提を取り払ってしまうと、途端に結論である「お前にとって都合が悪い(にもかかわらずこのやり方を採用していないのだから、お前は馬鹿だ)」という部分が消滅してしまい、誰に対して親切にもアドバイスしているのかがまったく見えなくなってしまうわけです。

「参照文とコンテンツ本体の違い」は単なる屁理屈

「過去の写真集のこれこれというページに児童ポルノがある」というようなことを書いても逮捕されそうな勢いですね。参照文とコンテンツ本体の違いを理解出来ない可哀想な人達が法律を運用してるみたいなんで

http://pastorale.jpn.org/2009-07-08-1.html

そうではなくて、「『児童ポルノ』として楽しむということ以外の筋の通る別文脈が存在しないのではないか?」と疑われたからこそ逮捕されたということなのではないでしょうか。たとえば、同じ「過去の写真集のこれこれというページに児童ポルノがある」と書くにしても、「その写真集は古書店でいくらでも入手できるのだが、国家は古書店がその写真集を販売できなくなるように早急に手を打つべきではないのか?」という文脈のもとでならば話は別のものになるような気がします。

つまり、「参照文は常にコンテンツ本体と同じ扱いをされる」を否定したからといって、必ずしも「参照文は常にコンテンツとは違う扱いをされる」が成立することにはならないわけで、参照する側も文脈を考えて参照する・しないを判断する責任がある(すなわち、説明要求をすることに筋の通る相手から「なぜ参照したのか?」と問われたら、「そこにあったからw」だけでは済まなくて、その参照を必要とする筋の通る文脈を説明する必要がある、それをしなければ無責任になる)ということなのではないでしょうか。

というか、この「参照文とコンテンツ本体の違い」というのは、リンク問題や公開ブックマークコメント問題の根底にも共通していてそうな気がします。「公開されているコンテンツ本体にリンクをしたりブックマークをしてコメントを公開してはいけない」の否定は「公開されているコンテンツにいつでもリンクをしたりブックマークをしてコメントを公開してもよい」ではありません。公開されているコンテンツ本体が主張している内容に反論をするという文脈のもとでならば、リンクをしたり、コメントを公開しても構わないような気がします。しかし、たとえば、コンテンツ本体が主張しているわけではないことについて揚げ足取りのような文脈でリンクをしたり、コメントを公開するのはいかがなものでしょう。そのような無責任な行為がなされるからこそ、リンク問題や公開ブックマークコメント問題などが生じているのではないでしょうか。

「コンテンツ本体」がタブーな存在であるならば、それを積極的に受け入れるという文脈のもとで「参照する」ことは、同様に「タブー」行為として扱われるでしょう。また、「コンテンツ本体」の主張内容に反論するでもなく、揚げ足取りなどのような筋の通らない文脈のもとで「参照する」ことは、「コンテンツ本体」に対する「いわれのないちょっかい」行為として扱われるでしょう。

この意味で、「参照する」という行為は、誰にも責任を負わなくて済むような行為ではなく、「コンテンツ本体」の責任を追及することに筋の通る相手や「コンテンツ本体」そのものに対して責任を負う必要が生じる行為であるような気がします。

ブコメレス

くっぱさんの理論には「筋の通る説明しろ」とか「説明責任がある」と言うような文言が多いのだけど、コレ、無断リンク禁止する側にも求めたら良いんじゃね?

はてなブックマーク - ekkenのブックマーク / 2009年7月13日

たとえば「(他の人は俺んとこに無断でリンクしてもいいけど)id:ekkenだけは無断でリンクするの禁止」宣言とか「(他の人は俺んとこにリンクしなくてもいいけど)id:ekkenだけは必ずリンクしろ」宣言みたいなものがなされたとしたら、id:ekken氏個人が宣言をした相手に「なぜ俺だけなのか筋の通る説明をしろ、さもなければお前は俺に無責任だ」と説明要求をすることに筋は通ると思います。しかし、無断リンク禁止宣言とは通常「(すべての人は俺んとこを個別に選んで)無断でリンクするの禁止」という形でなされるので、その場合はウェブを使う人の総意を決定する機関(そんなものあるのか?)が説明要求をするのならば解らなくはないけど、id:ekken氏個人が宣言をした相手に「なぜ俺だけなのか筋の通る説明をしろ」と説明要求をするのは頓珍漢な行為といえるのではw

論文等の後ろのリファレンスとの違いはアクセス性能だけだと思う。

はてなブックマーク - NOV1975のブックマーク / 2009年7月14日

まともな論文誌で査読付きのところは、「いわれのないちょっかい」としての文脈のもとで参照などしたら、レフェリーからの採録条件としてチェックが入ると思うが、いかがか?

めも:国家が安泰を図る意味で、犯罪となりそうなものを抑制したのであって、制作者の権利や心情云々を保護すべく抑制しようとしているわけではない。依然、公開物への参照・論評・批判自体は自由である。

はてなブックマーク - kana-kana_ceoのブックマーク / 2009年7月14日

「タブーの容認はタブー」というわけで、児童ポルノ参照での逮捕は、児童ポルノ制作者の権利や心情云々の保護どころか、児童ポルノ制作者の行為を積極的に受け入れるという文脈のもとで参照しているからなのでは?いったいどこから児童ポルノ制作者の保護なんて発想がでてくるのか、ちょっとおどろきました。また、公開物への参照・評論・批判自体は自由ですが、いわれのない批判やちょっかいみたいなことをした場合には、当然のことながら、その自由に伴う責任みたいなものを相手から問われてしまうこともあるのではないでしょうか。

『サンタフェ』廃棄はだれが判断するのか?

 与党改正案は、「自己の性的好奇心をそそる目的」で「児童ポルノ」を所持する行為に、罰則をもって対処している。

 野党質疑者は、これが自白のみで立証され、えん罪が生まれる危険性を指摘、私は、えん罪を生まないように、自白だけでなく、客観的な事実(画像を何回開いたか、何回も見た形跡のある本か、量はどうか、その人の日常の行動はどうか等)とともに、総合的に立証していけば、懸念は当たらないと答弁した。

http://www.hanashiyasuhiro.com/modules/news/article.php?storyid=194

これの怖さは、ある個人が「児童ポルノ」ではないと判断して思いっきり「自己の性的好奇心をそそる目的」で使いまくった場合に、後になって逮捕されて裁判所で「君がどう思っていたかは知らないけれど、君が心行くまで使いまくったそれは実は『児童ポルノ』なのだよw」みたいなことにならないのかどうかという点です。

そもそも、

具体の書籍が「児童ポルノ」に該当するか否か、私は、第1義的な解釈権を持つ所管省庁が判断すべきと思うし、ミリオンセラーにもなった有名な書籍であれば、政府も、問い合わせに対応する位のサービスはすべきであろう。

http://www.hanashiyasuhiro.com/modules/news/article.php?storyid=194

問い合わせをしなければ、国家が「児童ポルノ」と判断しているのかどうかわからないというのは、怖さ満点ではないでしょうか。『サンタフェ』ほどには有名でない書籍を廃棄するかどうかは、いったい誰が判断するのでしょう。それを所持している人が自主的に「児童ポルノ」かどうか判断しなければならないのでしょうか。しかし、その判断が国家の判断と異なっていた場合、それに伴う不利益は誰がどのように補てんしてくれるのでしょう。

私が思うに、まずは国家がミリオンセラーに限らず、どのコンテンツが「児童ポルノ」に該当するのかを個別に認定し、そのリストを広く公開するべきでしょう。その個別リストの中に写真集『サンタフェ』が含まれていた場合に、認定・公開後の猶予期間内に廃棄しなければならないとの義務を課すのならば、ある程度筋は通るような気がします。そのような手続きを経ることなく、「児童ポルノ」所持の容疑で逮捕みたいなことになってしまっては、おちおち出版物など購入することなんてできなくなってしまうのではないでしょうか。

とにかく、国家が「児童ポルノ」認定を公言したわけではない個別の出版物について、それを所持している個人が廃棄するかどうかを自主的に判断するなんて無理な話のように思います。

「ジャニーズ上半身裸」は児童ポルノではないのか?

私は、「ジャニーズがショーの途中で上半身を脱いだ写真」は、「児童ポルノ」として扱うべきでないと思うし、個人的には、現行法上、「児童ポルノ」に該当しないのではと考えている。

 というのは、ジャニーズのショーは、そもそも、歌唱・ダンスを見せ、聴衆を元気づけるもので、ストリップショーのような性的なショーとは明らかに異なり、ジャニーズのショーの過程で、上半身裸となって歌う写真が撮られたとして、それは、「1つの思い出」であり、「性欲を興奮させ、刺激する」ものでないため、「児童ポルノ」から除外されると考えるからだ。

http://www.hanashiyasuhiro.com/modules/news/article.php?storyid=194

『ショーの主催者側はそれを「ポルノ」という文脈で提供しているのではないのだから、たとえ上半身を脱いだ姿で撮影されている被写体が「児童」であったとしても、ショーの主催者側は「児童ポルノ」を提供したことにはならない』ということを主張されているのならば、異論はありません。

しかし今問題になっているのは、『その写真を所持した人が「児童ポルノ」を所持したことになるのかどうか?』であって、『その写真を提供した人が「児童ポルノ」を提供したことになるのかどうか?』という論点とは全くの別物なのではないかという気がするのですけど。

というか、今成立を目指しているのって、提供者側の文脈のみに依存して、所持者が処分されるかどうか決まるような法律なのでしょうか。たとえある個人が児童の上半身裸の写真を「自身の性欲を興奮させ、刺激する」目的で所持していたとしても、その写真の提供者が「歌唱・ダンスを見せ、聴衆を元気づける」ことを目的とするなど***筋の通る別文脈***を用意していさえすれば、「児童ポルノ」を所持したと扱われないような法律なのでしょうか。

もしそうならば、所持する側としても、提供者側に「ポルノ」以外に筋の通る別文脈が存在しているかどうかはある程度客観的に判断できますし、その判断のもとに所持した場合に「自身の性欲を興奮させ、刺激する」目的ではないことを証明する義務も生じないので、安心して日常の生活を送ることができるでしょう。それならば法律の制定に反対する人はそれほど多くはないように思います。

でもおそらくそうではなくて、たとえその写真が「ポルノ」とは別文脈のもとで提供されたものであったとしても、ある個人が「自身の性欲を興奮させ、刺激する」目的で所持していたならば、「児童ポルノ」を所持していたことになるような法律の成立を目指している恐れがあるからこそ、波紋が広がっているのではないでしょうか。

そもそも、ある個人が「『歌唱・ダンスを見せ、聴衆を元気づける』ことを目的に演じられたショーを思い出す」ことを目的に所持していたのではなく、「自身の性欲を興奮させ、刺激する」目的で所持していたことを、本人ではない他人がどのようにして証明できるのでしょう。それとも、そうではないことを証明する義務を負うのは写真を所持していた本人の側なのでしょうか。その義務を果たせないのならば、「『歌唱・ダンスを見せ、聴衆を元気づける』ことを目的に演じられたショーを思い出す」ことが目的であっても写真を所持すのを諦めなければならないのでしょうか。もしそうならば、その法律は少し変な方角に向かっているような気がします。

議論に勝ち負けはない

「主張」でなく「議論」であるなら、参加者の目的は「何らかの合意を得ること」になる筈だ。

負けを認めるまでが議論です - 妄想科學倶樂部

必ずしもそうではないでしょう。

議論における建前上の目的は「筋の通る反論が存在しないような論理を構築すること」であって、必ずしも合意を目的にしなければならない理由はないような気がします。というか、合意は通常、投票や採決などによってなされるのであって、その前に行われる「議論のようなもの」は確かに「自身の主張に合意を得ること」を目的としてなされるのかもしれませんけど、「筋の通る反論は存在するけれど、その存在に気づかれないように他の観点に興味を惹かせるなどの手段をもって、自身の主張への合意に誘導する」という行為でしかないケースも多々あるわけです。

合意のない状態から合意に至るということは、少なくとも意見のいずれかが当初の主張から変更されること、言い換えれば「最初の主張は間違っていた」と認めることに他ならない。これを「負け」と表現するのは好ましくないが、まあとにかく、曖昧に済ませるのではなく意見の変更をはっきり表明することが重要だ。

負けを認めるまでが議論です - 妄想科學倶樂部

議論において、誰がそれまでの主張を変更したのかは、それほど重要ではありません。筋の通る反論がなされないまま生き残っている主張が、筋の通る反論が誰かから提出されるまでの間は暫定的に結論と扱われるわけです。

議論に参加している人が、自身の主張と同時には成立し得ない他人の主張を筋の通る反論がなされない状態のまま放置することは、「自身の主張の暫定的な変更」を意味するわけです。しかも、筋の通る反論を提出さえすれば、再び自身の主張を議論の表舞台に登場させることも可能になるのだから、わざわざ高らかに「意見の変更をはっきり表明」する必要などないでしょう。「はっきり表明」してしまっては、いざ筋の通る反論を見つけたとしても、今さら議論の場に提出するのも、、と躊躇われてしまうのではないでしょうか。

現時点での暫定的な結論に筋の通る反論を提出することこそが、議論への貢献です。これが繰り返されることによって論理が洗練されていくわけです。勝利宣言は、筋の通る反論を出せとの催促でしかないでしょう。筋の通る反論が誰かから提出される可能性が残されている限り、議論は永遠に続くのであって、終わりはありません。

「しても構わない」の主張はどこまで適用されるのか

先日の記事で私は「レイプゲームを販売することは『実在の女性にレイプ行為をしても構わない』と主張している形になっているのではないか?」との主張をしました。もしかしたら、これを読んだ人の中には「『架空の女性にレイプ行為をしても構わない』と主張しているかもしれないけれど、さすがに『実在する女性にレイプ行為をしても構わない』とまでは主張している形になっていないのでは?」と感じた人もいたかもしれません。なので、少し詳しめに背後にある論法の解釈を試みたいと思います。

私の主張をもう少し丁寧に書くと「レイプゲームを販売することは『表現物における女性にレイプ行為をしても構わない』と主張している形になっているわけだが、これは『実在の女性にレイプ行為をしても構わないわけではない』と同時に主張することができない形になっているのではないか?』となります。言い換えると、「『表現物における女性に対するレイプ行為』と『実在の女性に対するレイプ行為』は『しても構わない』かどうかにおいて区別できないのではないか?」という主張です。

「実在の女性に対するレイプ行為」が「しても構わないわけではない」理由の一つとして、「人格(の存在が想定されている対象)を人格と扱わない態度」を挙げることができるかと思います。しかし、「表現物における女性に対するレイプ行為」についても、その女性には人格が設定されているわけで(人格の存在を想定したくなければ、女性など登場させず人間らしさを一切排除した表現を用いればいいだけの話)、当然「人格を人格と扱わない態度」は生じてしまうわけです。つまり、「表現物における女性にレイプ行為をしても構わない」と主張することは、「人格を人格と扱わない態度をとっても構わない」と主張することを意味し、このことは「実在の女性に対してレイプ行為をしても構わない」をも意味するのではないかと。

もちろん、上の主張の最後の部分は論理として必ず正しいというわけではありません。なぜなら、「実在の女性に対してレイプ行為をしても構わない」は必ずしも「人格を人格と扱わない態度をとっても構わない」を意味しないからです。もしも「人格を人格と扱わない態度」とは別に「実在の女性に対してレイプ行為をしても構わない」わけではない理由が存在するのならば、「人格を人格と扱わない態度をとっても構わない」と主張したからといって、必ずしも「実在の女性に対してレイプ行為をしても構わない」を主張したことにはならないわけです。

つまり、私の主張には「『実在の女性に対するレイプ行為』をしても構わないわけではない理由は、『人格を人格と扱わない態度』以外に存在しないのではないか?」という前提が含まれているわけです。

したがって、「レイプゲームを販売することは『実在の女性にレイプ行為をしても構わない』と主張している形になっているのではないか?」に筋の通る反論をするためには、上記の前提に筋の通る反論をすればいいわけです。しかし、「実在の女性に対するレイプ行為」をしても構わないわけではない理由として他にどのようなものが考えられるのでしょう。

たとえば、表現物における女性と違い実在の女性にレイプ行為をすると相手の身体に傷をつける可能性があります(表現物における女性なら傷が生じないという設定はいくらでも可能です)。たしかに他人の身体に傷をつけるというのは「しても構わない」わけではない行為という気もします。しかし、よく考えてみると、医療行為としての手術における切開などは他人に傷をつける形になっているわけで、他人に傷をつけるという行為においても「しても構わない」かどうかの境い目はやはり「人格を人格と扱わない態度」かどうかということになりそうです。だとしたら、いったい他にどのような理由があるのでしょうか。

もしも「『実在の女性にレイプ行為をしても構わない』わけではないが、レイプゲームを公然と販売することに問題はない」という人がいたとしたら、それを主張する前に、なぜ「実在の女性にレイプ行為をしても構わない」わけではないのか、その理由についてもう一度よく考えてみてはいかがかと思います。

「疑わしきは罰せず」はただ言いえばいいというものではない

議論において「Aが生じるのはBだからなのでは?」という主張がなされたとしましょう。この主張が意味するところは「Aに関する以降の議論においてBを前提に結論を導くことを受け入れろ」という要求なので、この要求の受け入れを阻止するには反論が必要となります。

このようなケースにおいてよくなされる反論として、「他の理由でAが生じないと証明されていない」という主張があります。それに加えて「疑わしきは罰せず」と声高に叫ぶ人を目にすることもあります。しかし、残念ながらこれだけでは筋の通る反論にはなりません。なぜなら、反論として筋を通すには「Aが生じるのはBだからとは必ずしも言えない」を主張しなければならないのですが、上記の主張はその形になっていないからです。「他の理由でAが生じないと証明されていない」は、必ずしも「他の理由でもAが生じる」を意味しないわけです。

では、「Aが生じるのはBだからとは必ずしも言えない」を主張するにはどうすればいいのでしょう。Aが生じる別シナリオCを提出すればいいのです。つまり、「Aが生じるケースとしてBというシナリオも筋は通るが、Cという別シナリオでも筋が通るから、Aが生じるのはBだからとは必ずしも言えない」との主張をもって、「疑わしきは罰せず」の適用を要求するわけです。それなしの「疑わしきは罰せず」適用要求は時期尚早であって、議論妨害に他なりません。

もしも別シナリオCが見つからなければ、とりあえずBを前提にすることを受け入れるしかないでしょう。しかし、それは暫定的な受け入れでしかないので心配はいりません。Cが見つかり次第、それを議論の場に提出すればいいだけのことです。それさえすればBを前提に構築された論理はいとも簡単にひっくり返すことができるのだから、Cが見つかる前に必死になって「疑わしきは罰せず」適用要求みたいな無理な議論妨害をする必要なんてないのではないでしょうか。