マンガ規制は目に余るご都合主義に対する必然

 東京都「性描写漫画販売規制」が成立した。

 私は、「おめでとう」と、申し上げたい。

 

 多くの人が、反対し、憤っていることを、私も知っている。

 だが、「強姦を礼賛」する作品が、子供に「普通」に売られる状態は「善」なのか?

東京都「性描写漫画販売規制」条例改正案、成立おめでとう。 - Adan Kadan Hatena

この手の設問については、YES/NOで答えることに議論としての価値はあまりなく、『子供に「普通」に売られる状態は「善」』とならないような『「強姦を礼賛」する作品』とはどのような作品であるかについて探求することにこそ価値があると思うわけですが、、

これを検討する際に、逆に『「礼讃」することなしに「強姦」を描く』とはどういうことなのかを考えてみると、『その行為が起こらざるを得ない状況的必然の説明とともに「強姦」を描写する』ということなのではないかと。つまり、『「強姦を礼賛」する』とは『ご都合主義的な状況設定のもとで行われる「強姦」行為を描写する』ことに他ならないのではないかと思うわけです。

たとえば、現実社会において、ある人物がご都合主義的な思想に取りつかれて通り魔的に強姦行為(あるいは刃傷行為でも可)に及んだとしましょう。その人物の言動があまりにご都合主義的であることをもって、我々は事件の全容を把握できたと納得するでしょうか。少なからぬ人は、なぜその人物がご都合主義的な思想に取りつかれたのかについて気になるのではないでしょうか。週刊誌やテレビのワイドショーなんかも、その需要に応えるために、その人物の生い立ちやら幼少期の家庭環境みたいなものを取り上げてみたり。つまり、ご都合主義とは現実社会におけるタブーであって、加えて、「タブーを黙認」することもタブーである(タブーにおいて「黙認」は「礼賛」を意味することになる)から、「必然なきご都合主義」の存在は受け入れがたいという背景があるわけです。つまり、必然なきご都合主義の持ち主は人にあらず、人であるからにはご都合主義的な思想は何らかの必然があってこそ生じ得ると。

しかし、マンガなどの創作物において人物や状況設定をするのは創作者自身です。つまり、ご都合主義的な思想に取りつかれた人物を、それが生じる必然の説明なしに作品中に導入することは、「必然なきご都合主義」の存在を認めていることになり、この態度のもとに創作された作品が野放しに販売されている状況は、「黙認」によって社会そのものが「ご都合主義を礼賛」していることを意味することになります。

もちろん、大人は知っています。作者や出版社が必ずしも好き好んで「ご都合主義礼賛」というタブーを犯しているのではなく、生業のために仕方なくやっているという解釈が存在することを。しかし、「ご都合主義」なエロ作品を目にする可能性がある子供に、いったい誰がそのような解釈の存在を説くのでしょう。それとも、子供が自らその解釈を思いつくのでしょうか。そうではなく、社会そのものが「ご都合主義を黙認(礼賛)」していると解釈してしまう、つまり、タブーをタブーと認識できない子供も現れてくると考えるのが自然なのではないでしょうか。

もしそうだとしたら、状況の必然を説明しないご都合主義な行為を描いた作品が目に余る状況が生じるたびに、お上に規制してもらおうという動きが出てくるのは必然のように思えます。