コメント欄閉鎖の意味するところ

経緯をまとめますと、『古本屋でのバイト時に教えてもらった便利な本・雑誌の縛り方』というものに対して、それを知っていたという人がコメントで「そんなの知っている」というコメントで溢れたというもの。口調などは見ての通り。これは正直「どうすればいいんだっての」と思いました。

ブログのコメント欄を無くすことは臆病者の選択肢ではなくなった - 空気を読まない中杜カズサ

ということで、ブログのコメント欄を閉鎖したりしても臆病というわけでないという主張がなされていのですが、「そんなの知っている」というコメントは元記事である古本屋でのバイト時に教えてもらった便利な本・雑誌の縛り方 - 空気を読まない中杜カズサでなされている主張が引き起こしているという意味で、本質をついているわけではないような気がします。

この元記事ではタイトルにある通り本屋さんでバイトをしているときに教えてもらった本の結わえ方が紹介されているのですが、問題なのは、そこでなされている主張が文脈的に「これが本の結わえ方の決定版である」という形になっているという点です。「まだ知らない人に教えてあげる」系の記事というのはどうしても同様の上から目線な形の主張をすることになってしまうのですが、「これが決定版である」と主張されれば、「その暫定版には俺も到達できていたけど(、さらなる改良版を模索している俺のような人のことを無駄なことをしている馬鹿か何かかと主張してんの?なんで決定版だと言い切れんの?お前、自分のこと神様か何かかと思ってんじゃね)?」という文脈の反論が出てくるのはごく自然のことなのではないでしょうか。

このエントリーを肯定評価していただいた方がいて、その方達が上のようなコメントを見た場合、少なくともいい気分はしないだろう

ブログのコメント欄を無くすことは臆病者の選択肢ではなくなった - 空気を読まない中杜カズサ

しかし、「これが決定版である」と主張する記事における反論の機会を制限する方向での措置は、言いっ放し宣言に他ならないような気がします。

というか、そもそも「これが決定版である」という主張さえしなければ、「そんなの知っている」なんてコメントは来なかったのではないでしょうか。専門家から教えてもらって自身の目から鱗が落ちたからといっても必ずしも決定版であるというわけではないわけで、更なる改良の余地を自ら模索するなりして暫定版であることを受け入れる可能性を残したうえで決定版かどうかを問う形にすれば、コメント欄を閉鎖するどころか有効に利用できるような気がします。

ある情報を賛同者が右から左へと即宣伝では、多数派形成工作行為となんら変わらないわけで、その辺りが反発を引き起こしやすい原因なのかもしれません。文脈的に「まだ知らない人に教えてあげる」ではなく「もっと知っている人から教えてほしい」という形にしておけば、話は違っていたのではないでしょうか。

ちなみに、私が本や古新聞を結わえる場合、床にビニールひもをαや∝みたいな形において、その上に本や古新聞をひもが交差している位置が底面の中心になるようにおいて、輪の部分を袈裟がけに上面に持ってきて、ひもの一端を輪の下に通してもう一端と結ぶという方法でやっています。