居酒屋持ち込み拒絶に対する善意のアドバイスの気持ち悪さ

活字中毒R。にて『人生の旅をゆく』(よしもとばなな著・幻冬舎文庫)から引用されている

 もしも店長がもうちょっと頭がよかったら、私たちのちょっと異様な年齢層やルックスや話し方を見てすぐに、みながそれぞれの仕事のうえでかなりの人脈を持っているということがわかるはずだ。

活字中毒R。

 居酒屋で土曜日の夜中の一時に客がゼロ、という状況はけっこう深刻である。

 その深刻さが回避されるかもしれない、ほんの一瞬のチャンスをみごとに彼は失ったのである。

活字中毒R。

早い話、居酒屋で『店側からの公式な許諾』のもとにワインの持ち込みをしようと試みたところ店長から公式な許諾を与えることを拒絶されたという体験談に続く部分なのですけど、読んでいて非常に気持ちが悪いわけです。そして、この気持ち悪さがあるからこそ、

  僕はこのエピソードを読んで、「自分がこの店長だったら、どうしただろう?」あるいは、「この店長は、どうするのが『正解』だったのだろう?」と考え込んでしまいました。

活字中毒R。

をはじめとして、この記事を参照する形で様々な反応が広がっているのではないでしょうか。

では、上に挙げた部分のどこに気持ち悪さがあるのでしょう。私個人としては、論法に気持ち悪さが存在しているように思います。注目したいのは、上に挙げた部分が「善意のアドバイス」という形をとっている点です。つまり、「このやり方にしないのは馬鹿じゃん?」と親切にも教えてあげているという形をとっているわけです。しかし、それはいったい誰に対する親切なのでしょう。

「店長はもう少し頭を使ったら?」というニュアンスが含まれている点から、一見すると、持ち込みを拒絶した店長に対する親切のようにも感じられるかもしれません。もしもその店長が「よしもとばなな様御一行がその人脈にものを言わせて将来新たなる客を大勢引き連れてきてくれるであろう可能性を最大限に生かす」ことを最優先の目的に店長という立場に従事しているのならば、「店長はよしもとばなな様御一行に居酒屋店内でのワイン持ち込みについての公式の許諾を与えるべきである」というアドバイスはとても的を射たものであり、「善意」や「親切」に基づくものとして扱うことに何ら違和感はないように思います。

しかし、もしも店長にとっての最優先の目的がそれであったならば、店長が余程の馬鹿でもない限り、よしもとばなな様御一行にワイン持ち込みの公式な許諾を当然与えていたことでしょう。ところが実際には店長はそれを与えることを拒絶しました。とすると余程の馬鹿であったということなのでしょうか。しかしですよ。余程の馬鹿にアドバイスすることにいったいどのような意味があるのでしょうか。相手にアドバイスを受け入れるだけの賢明さの余地を仮定しない限り、アドバイスは成立しないではないでしょうか。

だとすると残る可能性は、店長にとっての職務における最優先の目的が「よしもとばなな様御一行がその人脈にものを言わせて将来新たなる客を大勢引き連れてきてくれるであろう可能性を最大限に生かす」こと以外にあったということになるでしょう。しかし、もしそうだとすると、今度は「店長はよしもとばなな様御一行に居酒屋店内でのワイン持ち込みについての公式の許諾を与えるべきである」というアドバイスは店長にとって的を射たものとはならないわけです。つまり、このアドバイスは店長に対してなされたものではないと。

それで、話はふりだしに戻るのですけど、そのアドバイスはいったい誰に対する親切なのでしょうか。

もはや、どこかにいるかもしれない「よしもとばなな様御一行がその人脈にものを言わせて将来新たなる客を大勢引き連れてきてくれるであろう可能性を最大限に生かす」ことを最優先の目的としている人たちに対するアドバイスと見なすくらいしかできないのではないでしょうか。しかし、そのような人たちはいったいどこにいるのでしょう。本当にいるのでしょうか。本当にいるかどうかも分からない人たちに、なぜ親切にもアドバイスをしてあげているのでしょう。また、もし仮にそのような人たちがいたとして、その人たちにそのようなアドバイスは本当に必要なのでしょうか。わざわざアドバイスしなくても、当然アドバイスが述べているような行動をとっているのではないでしょうか。

しかし、だとすると、このアドバイスの意義はいったいどこにあるとよしもとばななさんは主張されているのでしょう。突き詰めていくと、そのあたりが見えなくなってしまうがために「善意のアドバイス」形式の主張には論法的に気持ち悪さが生じてしまうのではないでしょうか。

ならば、このアドバイスを筋の通る議論の一環と見なすのではなく、宗教的な教えの一環と見なすのはどうでしょう。つまり、『あなたはこれまでの目的を捨てて「よしもとばなな様御一行がその人脈にものを言わせて将来新たなる客を大勢引き連れてきてくれるであろう可能性を最大限に生かす」ことを居酒屋の店長としての職務における最優先の目的としなければ幸せになれない』という教えです。ここでいう「幸せ」とはその宗教がめざす最終到達地であって、その到達地を目指したい人はその宗教の教えに従えばいいわけです。しかし、その到達地としてまず見えてくるのは「よしもとばなな様御一行が居酒屋で気兼ねなくワインを持ち込んで大いに楽しめる」という状況であって、それって、よしもとばなな様御一行と無関係な人がめざしたいと考える「幸せ」の形にどれほど合致しているのでしょう。そのあたりの乖離が宗教の一環として見た場合においても、気持ち悪さを生じさせる原因になっているような気がします。

なお、似たような「善意のアドバイス」系の主張はネットでもよく目にすることがあります。たとえば、「無断でリンクをされたくないならば、無断リンク禁止宣言をすることはかえって禁止反対派からの無断リンクを招くことになるから、宣言をするのは賢明ではない」というようなものなどもその一例といえるでしょう。いったい誰に対する親切なのでしょうか。

ブコメレス

いったい誰に対する親切なのだろう?

はてなブックマーク - kana-kana_ceoのブックマーク / 2009年8月16日

「善意のアドバイス」って形の上では「このやり方を採用しないことはお前にとって都合が悪い(にもかかわらずこのやり方を採用していないのだから、お前は馬鹿だ)」という主張なわけですが、問題の根本は、「『お前の都合』を俺は完全に理解している」との(ある意味、非常に上から目線の)主張が自動的に含まれてしまうという点にあるのかもしれません。つまり、「『お前の都合』を俺は完全に理解している」という前提を取り払ってしまうと、途端に結論である「お前にとって都合が悪い(にもかかわらずこのやり方を採用していないのだから、お前は馬鹿だ)」という部分が消滅してしまい、誰に対して親切にもアドバイスしているのかがまったく見えなくなってしまうわけです。