「しても構わない」の主張はどこまで適用されるのか

先日の記事で私は「レイプゲームを販売することは『実在の女性にレイプ行為をしても構わない』と主張している形になっているのではないか?」との主張をしました。もしかしたら、これを読んだ人の中には「『架空の女性にレイプ行為をしても構わない』と主張しているかもしれないけれど、さすがに『実在する女性にレイプ行為をしても構わない』とまでは主張している形になっていないのでは?」と感じた人もいたかもしれません。なので、少し詳しめに背後にある論法の解釈を試みたいと思います。

私の主張をもう少し丁寧に書くと「レイプゲームを販売することは『表現物における女性にレイプ行為をしても構わない』と主張している形になっているわけだが、これは『実在の女性にレイプ行為をしても構わないわけではない』と同時に主張することができない形になっているのではないか?』となります。言い換えると、「『表現物における女性に対するレイプ行為』と『実在の女性に対するレイプ行為』は『しても構わない』かどうかにおいて区別できないのではないか?」という主張です。

「実在の女性に対するレイプ行為」が「しても構わないわけではない」理由の一つとして、「人格(の存在が想定されている対象)を人格と扱わない態度」を挙げることができるかと思います。しかし、「表現物における女性に対するレイプ行為」についても、その女性には人格が設定されているわけで(人格の存在を想定したくなければ、女性など登場させず人間らしさを一切排除した表現を用いればいいだけの話)、当然「人格を人格と扱わない態度」は生じてしまうわけです。つまり、「表現物における女性にレイプ行為をしても構わない」と主張することは、「人格を人格と扱わない態度をとっても構わない」と主張することを意味し、このことは「実在の女性に対してレイプ行為をしても構わない」をも意味するのではないかと。

もちろん、上の主張の最後の部分は論理として必ず正しいというわけではありません。なぜなら、「実在の女性に対してレイプ行為をしても構わない」は必ずしも「人格を人格と扱わない態度をとっても構わない」を意味しないからです。もしも「人格を人格と扱わない態度」とは別に「実在の女性に対してレイプ行為をしても構わない」わけではない理由が存在するのならば、「人格を人格と扱わない態度をとっても構わない」と主張したからといって、必ずしも「実在の女性に対してレイプ行為をしても構わない」を主張したことにはならないわけです。

つまり、私の主張には「『実在の女性に対するレイプ行為』をしても構わないわけではない理由は、『人格を人格と扱わない態度』以外に存在しないのではないか?」という前提が含まれているわけです。

したがって、「レイプゲームを販売することは『実在の女性にレイプ行為をしても構わない』と主張している形になっているのではないか?」に筋の通る反論をするためには、上記の前提に筋の通る反論をすればいいわけです。しかし、「実在の女性に対するレイプ行為」をしても構わないわけではない理由として他にどのようなものが考えられるのでしょう。

たとえば、表現物における女性と違い実在の女性にレイプ行為をすると相手の身体に傷をつける可能性があります(表現物における女性なら傷が生じないという設定はいくらでも可能です)。たしかに他人の身体に傷をつけるというのは「しても構わない」わけではない行為という気もします。しかし、よく考えてみると、医療行為としての手術における切開などは他人に傷をつける形になっているわけで、他人に傷をつけるという行為においても「しても構わない」かどうかの境い目はやはり「人格を人格と扱わない態度」かどうかということになりそうです。だとしたら、いったい他にどのような理由があるのでしょうか。

もしも「『実在の女性にレイプ行為をしても構わない』わけではないが、レイプゲームを公然と販売することに問題はない」という人がいたとしたら、それを主張する前に、なぜ「実在の女性にレイプ行為をしても構わない」わけではないのか、その理由についてもう一度よく考えてみてはいかがかと思います。