「他人との関わり方」論

「いじめられる子供の共通点」を調べる研究 | スラド Linuxでのコメントを見て思ったのですけど、いじめ問題というのは人と人との関わり方に何か歪があるからこそ生じているのではないでしょうか。あるいは、いじめ問題だけでなく、たとえばネガコメ問題なども人と人との関わり方に歪があるからこそ生じているような気もします。ならば、その手の問題の解決法を議論するにしても、そもそも人と人との他人としての関わり方とは何かについて論理的に概念を構築しなければ何も始まらないのではないでしょうか。

そこで、本記事では、他人との関わり方についての概念の論理構造を構築してみたいと思います。

議論とは

主張に対する反論を提出する過程。反論がなされないままの状態にある主張が暫定的な結論となる。議論に終結はなく、反論が提出された瞬間に暫定的な結論は無効となる。議論にはいつ誰が参加してもよい。

(「揚げ足取り」行為が回避されるメカニズム)

提出された主張に字面として複数の解釈が可能である場合、文脈的に矛盾が生じない解釈をもってその主張の解釈とする。したがって、反論のやりとりの流れは以下のようになる。

  • ある解釈のもとで主張に矛盾が生じることを指摘する。このことは、その他のどの解釈のもとでも矛盾が生じると主張していることを意味する。したがって、一度の反論においてすべての解釈それぞれに対して個別に矛盾が生じることを説明する必要はない。
  • 別解釈を提出し、その解釈のもとで主張のどこに矛盾が生じるのかについての説明を求める。提出する別解釈は、それまでに矛盾を指摘された解釈を一切含まないものであれば、字面として複数の解釈が可能であるものであってもかまわない。

上記のやりとりの繰り返しにより、可能性の残る解釈は段階的に絞り込まれることになる。また、完全に一つの解釈に絞り込まれる前のある段階において、矛盾の生じない解釈が可能であるとの暫定的合意(ただし、ある解釈のもとで矛盾が生じることの指摘が誰かによってなされるまでの間)に達したり、逆に、どの解釈でも矛盾が生じるため主張は無効であるとの暫定的合意(ただし、誰かによって別解釈が提出されるまでの間)に達することも可能である。

(「悪魔の証明」要求が回避されるメカニズム)

状況に関するあるシナリオを議論の前提としておくことが提案された場合に、なぜそのシナリオと言い切れるのかと尋ねるだけでは反論とはならず、状況に無矛盾な別シナリオが提出されるまでの間は、そのシナリオが議論における暫定的な前提として扱われる。別シナリオはいつ誰が提出してもよい。

(「極端なたとえ」の用法)

ある対象に対してある状況が成立するとの主張がなされた場合、その主張を無効であると扱うためには、根拠が存在しないとの暫定的合意を確立する必要がある。これをするためには、その状況が成立しない別の対象の(極端な)具体例を一つ挙げることで、その状況が成立する・しないを分離する明確な境界が存在しないことを主張すればよい。この反論に対する返答として提出された境界の内側に、なおその状況が成立しない対象が存在する場合には、そのような(極端な)具体例を一つ挙げる。以上のやりとりを繰り返すことで、どちらかの主張に対する暫定的合意に達することが可能となる。

「○○は□□だ」「えっ、もしかして△△は□□だ、みたいなことを言ってるの?」「いや、そういうことを言っているのではなくて、、○○は△△と違って××だからこそ□□だと言っているのだが?」「つまり、◇◇も××だから□□だってこと?ちょっと驚きなんだけど」「いや××というのは正確ではなくて、実は追加の条件として、、」

上記の例において、求められているのは××やそれへの追加条件の提出であることに注意。△△や◇◇がいかにたとえとして相応しくないかを説くのは筋違いであり、一種の議論妨害となる。

責任とは

相手を選んでなした行為について相手から「なぜお前からそれをされることを俺が受け入れなければならないのか説明せよ」との要求(以下、説明要求)がなされたときに、筋の通る説明をもって応えること。応えることができない場合、相手に対して「ちょっかい行為」をなしたという事実が生じる。

選んで行為をなした相手以外から説明要求をされた場合に、これに応えなければならない理由は明白ではない。したがって、そのような説明要求をしてきた相手に逆に「なぜお前から説明要求されることを俺が受け入れなければならないのか」と説明要求をすることには筋が通る。

謝罪とは、説明要求に対する「この行為をした相手になぜそれを私からされることを受け入れなければならないのか筋の通る説明をすることができないことを今はじめて知りました(したがって、一度知ったからには、以降の人生においては、そのような行為を一切いたしません)」という筋の通る説明の一つの形態。一度謝罪した行為を再び繰り返すことは、過去になしたその行為に対する筋の通る説明を別途謝罪以外の形で提出する必要が生じることを意味する。

社会空間とは(他人との関わり方)

他人に責任を負うメンバーによって構成される空間。他人に「ちょっかい行為」をすることは自身が社会空間からはみ出すことを意味する。社会空間からはみ出すことなく「ちょっかい行為」をすることが許されるのは、説明要求を引っ込めてもらえる程度に義理を感じてもらえているような相手のみである。

社会空間における特定の集団に対して行為をなした場合には、責任を負う相手は、その集団の個々のメンバーではなく、集団全体の総意である。つまり、個々のメンバーが行為者に対して直接説明要求をするのは筋違いであり、相手に対する「ちょっかい行為」となる可能性がある。しかし、行為者が「その集団に対してその行為をしてもかまわない」と主張していると解釈し、この主張に対して議論の流儀にのっとって反論を述べたとしても「ちょっかい行為」とはならない。

同様に、自身が直接選ばれて行為をなされたわけでもないのに他人個人に意見したり、その人のあり方を自身の価値観に基づいて評価し公言することは「ちょっかい行為」となる可能性がある。しかし、相手が「そのようにあってもかまわない」と主張していると解釈し、この主張に対して議論の流儀にのっとって反論を述べたとしても「ちょっかい行為」とはならない。


さて、以上の概念に基づいて「いじめ問題」を見てみると、

  • いじめる側はいじめられる側からの「なぜ俺がお前からいじめられることを受け入れなければならないのか」との説明要求に応えることができるのか

という点から、いじめる側は他人との関わり方から逸脱しており、社会空間からはみ出してしまっていると言えそうです。

また、「ネガコメ問題」についても、議論の流儀にのっとらないコメントなどは

  • 他人を自身の価値観に基づいて評価し公言する側がそれをされる側からの「なぜ俺がお前から勝手に評価され公言されることを受け入れなければならないのか」との説明要求に応えることができるのか

という点で「いじめ問題」と似たような状況が生じているような気がします。

ブコメレス

ここでいう「ネガコメ」が定義されていないのがアレ。

はてなブックマーク - ekkenのブックマーク / 2010年2月10日

ネガコメ」と称されるコメントをもって「ネガコメ」と定義していると解釈しても記事の文脈に矛盾は生じないと思いますけど?

つまり、本記事は、その主張の一部として、「ネガコメ」と称されるコメントがある特徴の有無によって分類できることについて述べているわけです。たとえば、

1. 記事に書かれた誤字や事実誤認の指摘

2. 曖昧に書かれたものに対する事実の確認

3. 反対意見の表明

4. 嫌悪感の意思表示

こうしたものを激しく嫌悪して、荒らし扱いする人をたまに見かけるのだけど……

小倉弁護士の「匿名性を濫用した私的制裁」について:ekken

に挙げられているようなコメントを「ネガコメ」と称する人もいるかもしれませんけど、

1.については、字の使い方を誤ったからこそ、あるいは、事実を誤認したからこそ、その主張に述べられている結論が成立するケースにおいて、その結論に反論をするという文脈ならば、誤字、事実誤認の指摘には筋が通ると思います。しかし、読み手が誤字や事実誤認を適宜修正して読んだとしても主張における結論に変化が生じないケースにおいては、議論に不必要な指摘であるという意味で、議論妨害という「ちょっかい行為」になると思います。

つまり、誤字や事実誤認の指摘であっても、それがどのような文脈のもとでなされるかによって話が変わってくるというのが本記事における主張です。

2.についても、表現された曖昧さの範囲で文脈的に矛盾が生じない解釈が可能であれば、それを前提に相手の主張を受け取ればいいだけのことであって、頼まれてもいないのに他人の表現を校正してあげるのは「ちょっかい行為」になると思います。ただし、曖昧さの範囲におけるどの解釈のもとでも結論を導く論理のどこかに矛盾が生じる場合に、「○○の部分はいろいろな解釈が可能だと思うのですけど、もしかして△△の意味でおっしゃっているのでしょうか。しかし、もしそうならば××という意味で矛盾が生じると思うのですけど?」といった感じで××を具体的に述べたうえで反論するのは筋が通ると思います。

1.と2.を無条件に許してしまうと、相手が提出した主張の「表現」についての不備をこと細かに指摘することを繰り返すことで、いくらでも議論妨害が可能となってしまうという点が、「揚げ足取り」行為と似ているわけです。

3.については、「反論の提出」ならば筋は通ると思いますが、「俺は反対票を投じるよ宣言」ならば、単なる議論妨害です。議論においては、誰が「俺は反対票を投じるよ宣言」をしようとも「反論の提出」がなされるまでの間は、暫定的な結論は無効とはなりません。

ある時刻になったら投票によって社会空間における意思決定をするということが決まっっているのならば、「俺は反対票を投じるよ宣言」は印象操作的な意味で有効かもしれませんが、いつ投票によって意思決定されるのかが決まっていない段階においては、議論を妨害する行為でしかありません。

4.についても同様です。「好き・嫌い」の「嫌い」に一票を投じることの宣言なわけですけど、ある個人が他人から勝手に投票の対象として扱われ、どちらに投票するのかについて公然と印象操作活動をされるのは「ちょっかい行為」以外のなにものでもないのではないでしょうか。公然と宣言するのではなく、心の中で「もし投票することになったら「嫌い」に投票してやる」と固く誓うにとどめるか、せいぜい相手本人のみが閲覧可能なメールなどでその気持ちを伝える程度にしておく必要があるように思います。