議論に勝ち負けはない

「主張」でなく「議論」であるなら、参加者の目的は「何らかの合意を得ること」になる筈だ。

負けを認めるまでが議論です - 妄想科學倶樂部

必ずしもそうではないでしょう。

議論における建前上の目的は「筋の通る反論が存在しないような論理を構築すること」であって、必ずしも合意を目的にしなければならない理由はないような気がします。というか、合意は通常、投票や採決などによってなされるのであって、その前に行われる「議論のようなもの」は確かに「自身の主張に合意を得ること」を目的としてなされるのかもしれませんけど、「筋の通る反論は存在するけれど、その存在に気づかれないように他の観点に興味を惹かせるなどの手段をもって、自身の主張への合意に誘導する」という行為でしかないケースも多々あるわけです。

合意のない状態から合意に至るということは、少なくとも意見のいずれかが当初の主張から変更されること、言い換えれば「最初の主張は間違っていた」と認めることに他ならない。これを「負け」と表現するのは好ましくないが、まあとにかく、曖昧に済ませるのではなく意見の変更をはっきり表明することが重要だ。

負けを認めるまでが議論です - 妄想科學倶樂部

議論において、誰がそれまでの主張を変更したのかは、それほど重要ではありません。筋の通る反論がなされないまま生き残っている主張が、筋の通る反論が誰かから提出されるまでの間は暫定的に結論と扱われるわけです。

議論に参加している人が、自身の主張と同時には成立し得ない他人の主張を筋の通る反論がなされない状態のまま放置することは、「自身の主張の暫定的な変更」を意味するわけです。しかも、筋の通る反論を提出さえすれば、再び自身の主張を議論の表舞台に登場させることも可能になるのだから、わざわざ高らかに「意見の変更をはっきり表明」する必要などないでしょう。「はっきり表明」してしまっては、いざ筋の通る反論を見つけたとしても、今さら議論の場に提出するのも、、と躊躇われてしまうのではないでしょうか。

現時点での暫定的な結論に筋の通る反論を提出することこそが、議論への貢献です。これが繰り返されることによって論理が洗練されていくわけです。勝利宣言は、筋の通る反論を出せとの催促でしかないでしょう。筋の通る反論が誰かから提出される可能性が残されている限り、議論は永遠に続くのであって、終わりはありません。