議論と多数派形成工作

インターネット時代の初期には、「開かれた討議」がサイバースペースで実現して市民社会が良くなる、という「楽観論」も大手を振っていたが、それが鳴りを潜めたのは言うまでもない。「開かれた討議空間」のひとつである2ちゃんねるを見よ。


そこには馬鹿馬鹿しくて相手にしない者、愛想が尽きた者、うんざりして脱落した者、の存在を想定しない「開かれた議論」の自己満足と独善が存在する。「2ちゃんねるは批判に開かれています。だから批判がないのは正しいことです」として異論を集中放火して脱落させ、ブログを炎上させて閉鎖に追い込み、こうして愚にもつかないコンセンサスの全体主義は達成される。この最悪の全体主義を回避するために、「学者の言ってることだから正しいということにしておく」という空虚な権威主義がマシになる。

http://d.hatena.ne.jp/uedaryo/20100125/1264420312

実は「開かれた議論」の場であるというのは単なる幻想であって、「開かれた多数派形成工作」の場となっているというのが現実なのではないでしょうか。たとえば、ブログの炎上などを「開かれた議論」の観点から眺めてみると、複数の人がよってたかって同じ主張(ブログ主の主張に対する同じ根拠に基づく反論)を重複して述べる行為というのは議論妨害でしかありません。一方、「開かれた多数派形成工作」の観点で眺めれば、どれだけ多くの賛同者がいるかをアピールすることは非常に重要な戦略になることでしょう。しかし、そのような戦略は「開かれた議論」と相容れない関係にあるわけです。

議論が何たるかを知っている人にとっては、多数派形成工作において用いられる議論とは相容れない手法に対して議論妨害であることを容易に主張できるでしょう。それをすることなく多数派形成工作の手法にさらされても手をこまねいているケースが見受けられるのは、議論が何たるかをよく理解していない人がいるからなのかもしれません。

ブコメレス

大筋で同意なんだけど、「議論」に対する考え方がいろいろあるからなぁ。相手に反論の余地を与えないことを議論の目的に設定する人とか。

はてなブックマーク - ekkenのブックマーク / 2010年2月17日

もしも反論の余地がないくらいに筋の通る論理が提出されたのならば、それは多くの人にとっての直感にも一致するようなものになっているのではないでしょうか。逆にいえば、直感に反すると感じる人は、直感に反する理由を深く探索することで、筋の通る反論を見出せるかもしれません。それを提出することで議論は一歩前に進むわけです。

議論にはいつ誰が参加してもいいわけで、たとえある一人が「相手に反論の余地を与えない」という思惑を達成することを目的に議論に参加したとしても、余程の筋の通る論理を構築しない限り、どうにかなるものではないような気がします。

直観に反する真理は多々あるのではないか。

はてなブックマーク - morimori_68のブックマーク / 2010年2月28日

直感と真理に乖離がない場合、直感と異なる主張に対しては筋の通る反論を見出せる可能性があり、一方、直感と真理に乖離がある場合には、真理を述べている主張に対する筋の通る反論を模索する過程において真理を深く理解することになり直感が適切に修正されるという意味で、議論において自身の直感と異なる主張が他者から提出された場合、筋の通る反論を模索することに無駄はないわけです。