「参照文とコンテンツ本体の違い」は単なる屁理屈

「過去の写真集のこれこれというページに児童ポルノがある」というようなことを書いても逮捕されそうな勢いですね。参照文とコンテンツ本体の違いを理解出来ない可哀想な人達が法律を運用してるみたいなんで

http://pastorale.jpn.org/2009-07-08-1.html

そうではなくて、「『児童ポルノ』として楽しむということ以外の筋の通る別文脈が存在しないのではないか?」と疑われたからこそ逮捕されたということなのではないでしょうか。たとえば、同じ「過去の写真集のこれこれというページに児童ポルノがある」と書くにしても、「その写真集は古書店でいくらでも入手できるのだが、国家は古書店がその写真集を販売できなくなるように早急に手を打つべきではないのか?」という文脈のもとでならば話は別のものになるような気がします。

つまり、「参照文は常にコンテンツ本体と同じ扱いをされる」を否定したからといって、必ずしも「参照文は常にコンテンツとは違う扱いをされる」が成立することにはならないわけで、参照する側も文脈を考えて参照する・しないを判断する責任がある(すなわち、説明要求をすることに筋の通る相手から「なぜ参照したのか?」と問われたら、「そこにあったからw」だけでは済まなくて、その参照を必要とする筋の通る文脈を説明する必要がある、それをしなければ無責任になる)ということなのではないでしょうか。

というか、この「参照文とコンテンツ本体の違い」というのは、リンク問題や公開ブックマークコメント問題の根底にも共通していてそうな気がします。「公開されているコンテンツ本体にリンクをしたりブックマークをしてコメントを公開してはいけない」の否定は「公開されているコンテンツにいつでもリンクをしたりブックマークをしてコメントを公開してもよい」ではありません。公開されているコンテンツ本体が主張している内容に反論をするという文脈のもとでならば、リンクをしたり、コメントを公開しても構わないような気がします。しかし、たとえば、コンテンツ本体が主張しているわけではないことについて揚げ足取りのような文脈でリンクをしたり、コメントを公開するのはいかがなものでしょう。そのような無責任な行為がなされるからこそ、リンク問題や公開ブックマークコメント問題などが生じているのではないでしょうか。

「コンテンツ本体」がタブーな存在であるならば、それを積極的に受け入れるという文脈のもとで「参照する」ことは、同様に「タブー」行為として扱われるでしょう。また、「コンテンツ本体」の主張内容に反論するでもなく、揚げ足取りなどのような筋の通らない文脈のもとで「参照する」ことは、「コンテンツ本体」に対する「いわれのないちょっかい」行為として扱われるでしょう。

この意味で、「参照する」という行為は、誰にも責任を負わなくて済むような行為ではなく、「コンテンツ本体」の責任を追及することに筋の通る相手や「コンテンツ本体」そのものに対して責任を負う必要が生じる行為であるような気がします。

ブコメレス

くっぱさんの理論には「筋の通る説明しろ」とか「説明責任がある」と言うような文言が多いのだけど、コレ、無断リンク禁止する側にも求めたら良いんじゃね?

はてなブックマーク - ekkenのブックマーク / 2009年7月13日

たとえば「(他の人は俺んとこに無断でリンクしてもいいけど)id:ekkenだけは無断でリンクするの禁止」宣言とか「(他の人は俺んとこにリンクしなくてもいいけど)id:ekkenだけは必ずリンクしろ」宣言みたいなものがなされたとしたら、id:ekken氏個人が宣言をした相手に「なぜ俺だけなのか筋の通る説明をしろ、さもなければお前は俺に無責任だ」と説明要求をすることに筋は通ると思います。しかし、無断リンク禁止宣言とは通常「(すべての人は俺んとこを個別に選んで)無断でリンクするの禁止」という形でなされるので、その場合はウェブを使う人の総意を決定する機関(そんなものあるのか?)が説明要求をするのならば解らなくはないけど、id:ekken氏個人が宣言をした相手に「なぜ俺だけなのか筋の通る説明をしろ」と説明要求をするのは頓珍漢な行為といえるのではw

論文等の後ろのリファレンスとの違いはアクセス性能だけだと思う。

はてなブックマーク - NOV1975のブックマーク / 2009年7月14日

まともな論文誌で査読付きのところは、「いわれのないちょっかい」としての文脈のもとで参照などしたら、レフェリーからの採録条件としてチェックが入ると思うが、いかがか?

めも:国家が安泰を図る意味で、犯罪となりそうなものを抑制したのであって、制作者の権利や心情云々を保護すべく抑制しようとしているわけではない。依然、公開物への参照・論評・批判自体は自由である。

はてなブックマーク - kana-kana_ceoのブックマーク / 2009年7月14日

「タブーの容認はタブー」というわけで、児童ポルノ参照での逮捕は、児童ポルノ制作者の権利や心情云々の保護どころか、児童ポルノ制作者の行為を積極的に受け入れるという文脈のもとで参照しているからなのでは?いったいどこから児童ポルノ制作者の保護なんて発想がでてくるのか、ちょっとおどろきました。また、公開物への参照・評論・批判自体は自由ですが、いわれのない批判やちょっかいみたいなことをした場合には、当然のことながら、その自由に伴う責任みたいなものを相手から問われてしまうこともあるのではないでしょうか。