他人に融通要求をするための資格

「特別な事情」は自分だけにあるとは限らない:ekkenは、まさにその通りだと思います。

そもそも、他人への融通要求(が拒絶されたときに相手を批判する自由)は相手に対する責任とセットでなければバランスが取れないような気がします。

昔と違い、現在は他人に融通をお願いしても断られることが多くなったと感じる人は多いかもしれません。これは融通をお願いされる側がケチになったからなのでしょうか。私はそうは思いません。近所の悪ガキを叱るカミナリ親父がいなくなったのとも同根なのですけど、融通をお願いする側がケチになった(あるいは、ケチにならざるを得なくなった)からではないかと思うわけです。

融通をお願いするとは、普段とは異なるイレギュラーな状況におかれることの受け入れを相手にお願いするということです。当然、相手には何がしかの負担が生じます。しかし、その負担は融通される側の事情ではなく、融通する側の事情で決まります。したがって、最悪の場合にどの程度の負担であるかは、融通される側としては青天井を想定するしかありません。

昔、近隣縁者との助け合いなしでは生きていけなかった時代には、逆にメンバーの人数が多少増えても持ちつ持たれつの関係の中で何とか生きていけたわけです。いざとなれば、自分に融通してくれたことが原因で食べていけなくなったと頼ってきた人の面倒をみることも可能だったのではないでしょうか。しかし、現在は近隣縁者との助け合いなしにお金で生きていく時代になってしまったため、よそ者の生活まで請け負うだけの余裕は持てなくなってしまっているわけです。カミナリ親父もまたしかりです。昔ならば、地域の顔役は「いざとなればお前の将来の食い扶持くらい俺が世話してやる」を背景に近所の悪ガキにカミナリを落とすことができたわけです。現在は、そこまで顔の利く人はそれほど多くなくなったということなのではないでしょうか。

つまり、最悪の事態に対して責任を負えるだけの背景がなくなってしまっているのだから、融通の要求をしても断られることが多くなるのは至極当然のことなのではないかと思うわけです。もちろん、最悪の事態を自己責任で請け負う覚悟の上で相手に融通してあげるという人も中にはいるでしょう。しかし、それをしてもらえなかったからといって、相手を責めるのは筋違いというものではないでしょうか。