レイプゲーム規制問題の本質は「話せば分かる」かどうかの問題

レイプゲーム規制問題についてブログでいろいろ読んでみて、女性差別がどうのとか、表現の自由がどのうとか議論されているわけですけど、この手の問題が生じるというか、表現物に対して抗議行動が起こる根本には、社会空間におけるひとりひとりの在り方みたいなものが関係しているような気がします。

社会空間が社会空間として維持されるためには、少なくとも他人同士が互いに「話せば分かる」という間柄でなければならないでしょう。もしも「話しても分からない人」がいたとしたら、その人に何らかの行為をする際にたとえ「その人がそれをされることを受け入れなければならない筋の通る理由」を説明したとしても、その人はそれをされることを受け入れずに反撃をしてくるかもしれません。もしそうだとしたら、「筋の通る理由」を用意することなどまったくの無駄で、それよりも反撃に対抗できる手段を用意することがよほど合理的となるでしょう。互いにそのような関係となれば、もはや社会空間ではなく、目的のためには手段を選ばないケダモノ同士の間柄と何ら変わりありません。

それで、上記のことに注意してレイプゲームに対する規制運動が起こる根本的な原因を考えると、レイプゲームの内容が「話しても分からない人」による主張を含んでいるように見えてしまっている点にあるのではないかと思うわけです。

たとえば、そのゲームの内容において「なぜゲーム内のその女性がレイプ行為を他人からされることを受け入れなければならないのかについての筋の通る説明」がなされていないならば、

  • 「自分がしたいと思えば筋の通る説明の存在なしに女性にレイプをしても構わない」

という主張がゲームによってなされていると解釈する人が現れたとしても何ら不思議はないでしょう(さらに言えば、議論において「口で言っていること」と「実際にやっていること」が異なっている場合は、もちろん後者が事実上の主張なので、たとえゲームのパッケージや画面上に「女性にレイプするのはいけないことだ」と表示したとしても、それは口先だけの話としてしか扱われません)。当然のことながら、

  • 「おまえのその主張が成立する根拠を述べよ、さもなければゲームの販売を中止することによって主張を取り下げよ」

との要求がなされることになるわけです。ここまでは、議論におけるごく普通の流れです。ゲームの販売が即刻中止されれば、特に問題とはならないでしょう。

問題が生じるのは、「女性にレイプをしても構わない」との主張が成立する根拠の説明をしないにもかかわらず、ゲームの販売を中止することもなく「レイプしても構わない」との主張を維持し続けた場合です。これって「話しても分からない人」がする態度なわけで、もしもそのような態度がまかり通るのだとしたらいずれ社会空間は崩壊してしまうのではないかと不安になり、国家なりに規制を求めたくなる人が現れたとしても不自然な話ではないのではないでしょうか。

つまり、この問題の根本は「差別」でも「『表現の自由』の履き違い」でもなく、「社会空間において『話しても分からない』態度をまかり通していること」から来ているような気がします。

ブコメレス

エロゲー真面目に語っちゃう俺ワロスwwwか。ニュース見てればわかるけど、こういうの否定する人は獣以外の何者でもない。言葉を交わすという高級なことは出来ない。自分の感情でしか動けない。

はてなブックマーク - Arasiのブックマーク / 2009年6月2日

ある人が動くかどうかはその人の感情によるものだと思うけれど、誰が動くか以前の問題が存在しているのではないかというのがこの記事の主張です。ある表現物があると、人はその表現物が文脈的に何を主張しようとしているのかを読み取ろうとする。たとえばピカソやダリみたいな人が描いた絵画は素人には背後の主張を読み取ろうとしてもまったく想像がつかない。しかし、レイプゲームみたいなものは「女性の人格を模したものにレイプをしても構わない」という主張が容易に読み取れてしまうわけです。

『他人同士が互いに「話せば分かる」という間柄でなければならない』から問答無用でエロゲを即時販売せよって逆だろ。売るなら『「女性にレイプをしても構わない」との主張が成立する根拠の説明』をせよと。何ソレ

http://b.hatena.ne.jp/Thsc/20090602#bookmark-13764810

「逆だろ」の意味がよく解りませんが?

思想実験と本人の主張の区別がちょっとつきにくいな/大抵の人はこれがおかしいと主張している→人を殺してはいけない→人が殺される話は発禁だ。 人を騙してはいけない→人が騙される話は発禁だ

はてなブックマーク - fut573のブックマーク / 2009年6月2日

世の中、殺人シーンのあるテレビドラマなんてたくさんありますけど、人が殺されていく様子を観賞するという文脈ではなく、別の文脈においてそのシーンがなければ成立しないという形をとります。つまり、主張内容は別文脈(たとえば「刑事かっこいい」とか「探偵頭いい」とか「やっぱり悪は倒される」とか)にあって、殺人はその主張をするために必要不可欠な道具という形をとることによって、「人を殺しても構わない」という主張が含まれることを回避しているわけです。当然、人が殺されていく様子を必要以上にたっぷりとつぶさに見せるということはありません。一方、レイプゲームなどは、そのような自制を働かすことなく、女性がレイプされる様子そのものを観賞する、あるいは自らが女性をレイプすることを擬似体験するという文脈になっているがために抗議行動が起こっているのではないでしょうか。

お前ら規制派こそ話しても分からん連中だろうがよ。何言ってもお前らは聞きもせず潰そうとするだけだ。

この記事への反論ではなさそうです。

「その描写がどうしても必要不可欠となる別文脈を用意する」というのが表現に対する制約として本当に機能すると、かなり強烈なことに

はてなブックマーク - samonjiのブックマーク / 2009年6月4日

でも殺人シーンやレイプシーンを含むテレビドラマや映画なんかのほとんどが、殺人やレイプを擬似体験して楽しむという文脈ではなく、別文脈の中で必要最小限の描写という形をとっているわけです。どうしても描写したい人にとっては、その制約の中でどのように無理のない別文脈を用意するかが表現者としての腕の見せ所なのではないでしょうか。