「勝手世直し」行為こそ「他人の無責任は認めんが、俺の無責任は許せ」という態度なのでは?

おそらく前回の記事の

AがBに無責任な行為をして、CがAに同じ行為をした場合、(中略)Aは、(中略)C個人に文句を言うことはできる

自分が同じ事をされてもそれに寛容であるべきか? - くっぱのブログ

の部分に対してだと思うのですけど、id:ekken氏からまたまたブックマークの形で

この考え方では他人の無責任は認めんが、俺の無責任は許してねという風に見える。

はてなブックマーク - ekkenのブックマーク / 2009年5月17日

とコメントをいただきました。文脈的に判断するに、「AがBに対して『俺の無責任を許してね』という態度をとるなら、AはCからの『俺の無責任を許してね』という態度を受け入れなければならない」という主張が含まれていると解釈できそうですが、はたしてこの主張は筋の通るものとして成立しているのでしょうか。

もしも「Aがすべての各個人に対して『俺の無責任を許してね』という態度をとるなら、Aはどの人(もちろんCも含まれる)からの『俺の無責任を許してね』という態度も受け入れなければならない」という主張ならば、解らなくはないような気もします。しかし、Aが『俺の無責任を許してね』という態度をとっている相手は文脈的にBのみなのです。もしかしたら「Bに『俺の無責任を許してね』という態度をとることは、すべての各個人に『俺の無責任を許してね』という態度をとったことを意味する」という前提を用いているのかもしれませんが、この前提は大いなる論理の飛躍でしょう。しかし、もしもこの前提を用いていないのならば、いったいどのような論理のもとに「Aはどの人からの『俺の無責任を許してね』という態度も受け入れなければならない」という結論を導くことができるのでしょうか。

で、ここからはCの態度の気持ち悪さについてです。

Aは「Cの俺に対する無責任は認めんが、俺のBに対する無責任は許せ」という態度をいったい誰に示しているのでしょう。誰にも示していはいません。「Cの俺に対する無責任を認めん」はCに対する態度ではあるものの、Bに対する態度ではありません。また、「俺のBに対する無責任は許せ」はBに対する態度ではあるものの、Cに対する態度ではありません。

一方、CがAに示した態度はというと「俺はお前のBに対する無責任を認めないから、Bがされたのと同じ行為をお前にするけど、お前は俺に文句を言うな」、つまり「お前のBに対する無責任は認めんが、俺のお前に対する無責任は許せ」となります。だとすると、「他人の無責任は認めんが、俺の無責任は許せ」という態度をとっているのは、実はAではなくCなのではないでしょうか。

さらに気持ち悪いのが、Cが「認めん」としている無責任は、他人から自分自身に向けられた無責任ではなく、他人同士の間に生じた無責任であるという点です。なぜ他人の間に生じた無責任について、C個人が認めるとか認めないとか介入することができるのでしょう。もしもCが社会空間の総意の役割を担っているのなら解らなくもありませんが、C個人がその役割を担っていようはずもないわけで、まさに「勝手世直し」という行為をしているだけなのではないでしょうか。そして、「勝手世直し」行為というのは、それを見て痛快に思う人も中にいるかもしれませんが、本質的にはターゲットにした相手に対する「リンチ」行為と何ら変わらないのではないでしょうか。

そんなわけで、AがBに無責任な行為をして、CがAに同じ行為をした場合、AはCに文句を言えない(つまり、CはAにその行為をしても構わない)とするのはかなり胡散臭い気がします。

ブコメレス

長々と説明している割には、結局「キモチワルイ」に帰結しているなぁ。

はてなブックマーク - ekkenのブックマーク / 2009年5月17日

「CのAに対する態度が無責任でないことの根拠は必ずしも明らかになっているわけではない」ということを主張しているわけで、逆に「キモチワルくない」に帰結してしまうと論理の構築に失敗したことになるのですけどw