自分が同じ事をされてもそれに寛容であるべきか?

おそらく前回の記事の

「Aは(Bに対して)無責任な行為をしたのだから、Aは他人から同じ無責任行為をされても文句を言える筋合いにない。だから、俺がAに同じ無責任行為をしたとしても問題はない」は論理に無理がある

AがBに何かをしたら、CはAに同じことをしてもいいのか問題 - くっぱのブログ

の部分に対してだと思うのですけど、id:ekken氏からブックマークの形で

「問題がない」とは思わんけど、少なくとも当事者が文句をいう筋合いはないと思うんだよね。他人に罵声を浴びせている人は自分が同じ事をされてもそれに寛容であるべきみたいな感じかな。

はてなブックマーク - ekkenのブックマーク / 2009年5月16日

とのコメントをいただきました。つまり、文脈から察するに「AがBに対して無責任な行為(たとえば罵声を浴びせるような行為)をしたら、Aは他人から同じ無責任行為をされても文句を言える筋合いにない(のだから、他人からそれをされることを寛容に受け入れなければならない)」と主張されているのだと思いますが、この主張は胡散臭いというか、危険な臭いが漂っているような気がします。

仮に、Aは他人からその行為をされることを寛容に受け入れなければならない(つまり、他人がAに対してその行為をしたとしても無責任にならない)として、しかし、Aは他人からそれをされると困ってしまうとしましょう。しかしこれだと、Aを困らせてやれと考える人は(たとえ、職場での人間関係のトラブルによるむしゃくしゃした気持ちの鬱憤を晴らすというような個人的な目的であったとしても)、Aに対していくらでもリンチをすることが出来てしまうことになります。こんな論理をまかりとおすのは危険ではないでしょうか。

というか「AはBから同じ無責任行為をされても文句を言える筋合いにない」ならば解らなくはないのですが、「Aは(B以外の)他人Cから同じ無責任行為をされたとしても文句を言える筋合いにない」はどのような論法で導くことができるのでしょう。そのあたりが胡散臭いと感じるわけです。

ただし、BがAに対して文句を言える筋合いにあるのと同様に、AがCに文句を言える筋合いにあるのだとしたら、AとBの立場の違いがどこにあるのかと疑問に思うのも自然なことと思います。まったく同じ立場であるというのは私個人としても直感的に違うような気がするので考えてみたのですが、社会空間の総意に対して「なぜそのような行為をする人間をのさばらせておくのか?」と問いかけることのできるかどうかという点に違いがあるのではないでしょうか。つまり、この問いかけには「そのような行為をする人間はのさばっていてはならない」との主張が含まれるため、Aがこの問いかけをすることは、自らがのさばっていることに矛盾するという意味で筋が通らないわけです。

まとめると、AがBに無責任な行為をして、CがAに同じ行為をした場合、三者はそれぞれ、

  • Bは、社会空間の総意に「なぜそのような行為をする人間をのさばらせておくのか?」と問いかけることができるし、Aからその行為をされることを受け入れる必要もない(つまり、A個人に文句を言うこともできる)
  • Aは、社会空間の総意に「なぜそのような行為をする人間をのさばらせておくのか?」と問いかけることはできないが、Cからその行為をされることを受け入れる必要はない(つまり、C個人に文句を言うことはできる)
  • Cは、社会空間の総意に「なぜそのような行為をする人間をのさばらせておくのか?」と問いかけることはできない

という立場にあり、したがって、Aの行為がB個人に対して無責任であるのと同様に、Cの行為はA個人に対して無責任ということになるのではないでしょうか。

ブコメレス

行列が崩れ始めると、いっせいに崩れる話。

はてなブックマーク - REVのブックマーク / 2009年5月17日

そう、ひとりが誰か他人を人間扱いしなくなると、みんなが他人を互いにケダモノか何かのように扱い出す道が開かれるメカニズムを扱った話。

この考え方では他人の無責任は認めんが、俺の無責任は許してねという風に見える。

はてなブックマーク - ekkenのブックマーク / 2009年5月17日

見えているのは気のせいではないでしょうか。重要な点なので慎重を期するために、さらに別記事を立てて考察してみたいと思います。

自業自得が適用される範囲の問題的。寛容というのとは違って、戻ってきたブーメランにしばかれる責任は誰かの問題。Cは他者として登場しているが、行為の象徴でもある。

はてなブックマーク - NOV1975のブックマーク / 2009年5月17日

Aが自業自得として受け入れなければならないのは、たとえ社会空間の総意がAがCからその行為をされるのを阻止してくれなくても、社会空間の総意に対して文句を言えないということ。でも、それと同時に、Aにその行為をすることを社会空間の総意がCにさせているわけでもないという点に、私自身はより注目しているわけです。

AがCに文句を言うのは自由だけど、周囲の目には非常に自分勝手な人間に写って周りに対するAの心証が悪くなるのは避けられないと思う。

はてなブックマーク - denchuincのブックマーク / 2009年5月17日

周囲の目から見て、Bに対する行為が原因でAの心証が悪くなったり、Aに対する行為が原因でCの心証が悪くなるのは解らなくはないけれど、Aに対する行為が原因でCの心証をよくしたり、Cへの文句行動が原因でAの心証を悪くするような人がいたとしたら、その人は早合点なのではないかというのが一連の記事が主張している内容なのですが。

単純な話で「B以外から無責任な行為をされても文句は言わないよ」というAダッシュな人の存在も自由なので、Aに取って筋合いは無いし寛容にならなくてもいいがAダッシュの存在や行動も自由。ってだけじゃね

はてなブックマーク - otsuneのブックマーク / 2009年5月17日

またこの人は文脈と関係ないことを言っている気がw

AさんがBさんに無責任なことをしたとして、Aさんがそれを問題と思っていないなら、Aさんにとってそれは自然な行為であって、Cさんに同じ事をされたとしても何も思わないのでは、とか。

はてなブックマーク - youichirouのブックマーク / 2009年5月17日

「Aがそれを問題と思っていない」が真実かどうかを知っているのはAのみなので、Cが勝手に「Aがそれを問題と思っていない」を前提にしたとしても論理の飛躍でしかありません。

ちゃんと読めてないかもしれないけれども、「誰が」「誰に」って関係あるのかなあ。そういうこととは無関係に、同じ行為についての評価は同じになるはずだし、そうでなければダブスタのような気が。

はてなブックマーク - samonjiのブックマーク / 2009年5月18日

AがBにリンチをしたら、CはAに同じ内容のリンチをしていいのでしょうか。もしもAがCに抵抗をしたらダブスタでしょうけれど、そのことと、AがCからリンチをされることを受け入れなければならないかどうかと、いったいどのように関係しているのでしょうか。

もしも社会空間の総意がすべての人のダブスタな態度を認めないと決定したのならば、Aのダブスタも許されない(Cからのリンチを受け入れなければならない)でしょう。しかし、少なくとも社会空間の総意がそれを決定することが待たれている段階にあっては、CがAにリンチをしたら、それはCの勝手な先走り行動であって、Aがそれを受け入れなけれはならない理由はないというのが論理の流れです。

というか、ある人がイジメをしていたことが発覚したら、誰でもその人のことをイジメてかまわないのでしょうか?