「公開している時点で受け入れるべきでは」の気持ち悪さ

そもそも言論を公開している時点で言及がなされること自体は受け入れるべきでは? その内容の正当性はまた別問題。

はてなブックマーク - ekkenのブックマーク / 2009年5月12日

言論の中で主張されている内容について、文脈に沿う形で新しい視点を伴って言及されるのならば、それは正当な言及として受け入れるしかないでしょう。しかし、文脈に沿わない単なる茶化しであるような場合や、冗長な(つまり、すでに他人によってなされている言及に賛意の一票を投じるような勝手投票行為的な)言及は、正当な言及として受け入れる必要はないのではないでしょうか。

美人さんが公然と街を歩いたとして、その美人さんはどこの誰とも知らないような男性たちから公然とナンパされたり、美人投票の対象とされることを、街を歩いた代償として受け入れなければならないのでしょうか。実際のところ、街でそのようなちょっかい行為をすればできるにもかかわらず無制限に生じていないのは、その美人さんという個人に対して無責任であることの後ろめたさのようなものが背景にあって、せいぜい心の中で「美人さん見ーちゃった、ラッキー♪」とつぶやくくらいにとどめているからではないでしょうか。ナンパされるのを嫌がる美人さんに対する「嫌ならお前は街を歩くな」は、はたして筋の通る態度といえるのでしょうか。

たとえ大多数が「アホなコメント」と思うようなものであっても、少数の一部の人にとっては優れたコメントかもしれないし、

はてブのマイナス評価軸は要らんなぁ:ekken

これについても、「一部の人にとって優れたコメントである可能性」は必ずしも錦の御旗にはならない点に注意が必要です。街で美人さんを見かけたときに、「ここに美人さんがいるよ!」と公然と宣伝すれば、「うひょ〜、ほんとすんげー美人がいたものだ♪」と喜ぶ人も中にいるでしょう。しかし、「この人は美人である」という主張に対して反論を述べる人も現れるかもしれません。このような形で美人投票の対象とされることを、美人さんは街を歩いただけで無条件に受け入れなければならないのでしょうか。

他人にコメントをするという行為は、常にコメント相手に対して無責任であるかどうかという点が問われるような行為であるような気がします。