無断リンク禁止問題について私もかなり本気を出して考えてみる

無断リンク禁止問題」を扱って10年のえっけんさんがかなりテキトーに考えられたという

「無断リンク禁止」問題についてかなりテキトーに考えてみた:ekken

を読んで、自らおっしゃっている「テキトー」という言葉はまあ口先だけである可能性も残されてはいるわけですけど、私もかなり本気出して(←これも口先だけかも?)、「無断リンク禁止」論について自分の考えをまとめてみたいと思います。

なぜ議論が生じるのか

「無断でリンクをすることを禁止する」と宣言されているサイトに無断でリンクをしてOKか否かという議論があります。えっけんさんが10年も関心を持ち続けているとおっしゃられているように、この議論は廃れることなく延々とネット上でなされ続けているわけです。

しかし、無断でリンクをしようと思えばいくらでもできるのに、なぜ議論はこれほど長きにわたって持続しているのでしょう。無断リンクをしたい側の人にとって、また無断リンクをされたくない側の人にとっても、社会空間という大前提が深い所に横たわっているからではないかという気がしているのですが、本論に移る前に、まずこのことについて述べてみたいと思います。

「社会空間」とはなんでしょう。できる限りシンプル、かつ、ほとんどの事象を説明できる解釈は何かと考えてみると、

  • それに属する一員は、別の一員を選んで何らかの行為をなす際には、相手からの「なぜお前からその行為をされることを俺が受け入れなければならないのか説明せよ」との要求を受け入れるチャネルを開き、もしも相手からその要求がなされた場合には筋の通る説明をする必要が生じる

あたりを思いつくかと思います。つまり、社会空間とは相手に責任を負う(相手に対して筋の通る応答をする)からこそ成立する空間であり、たとえば、殺人とは相手からの「説明せよ」との要求を受け入れるチャネルを開くことなくなされる無責任行為という意味で、社会空間からはみ出した者によってなされる行為であるという解釈です。また、他者へのコメント行為なども、議論の形を取らない限り(つまり、コメント先の内容との文脈的なつながりや、コメントに述べられている結論がどのように導かれるのかについての論理を明かすことを拒むような態度をとる限り)、相手から「なぜお前からそのようなコメントをされることを俺が受け入れなければならないのか説明せよ」と要求されたら説明をする必要が生じるわけで、いわゆるコメント書き逃げ行為は、社会空間からはみ出した者によってなされる行為という解釈ができるわけです。匿名コメント問題も、本質的にはこれと同根ではないでしょうか。

このように考えてみると、無断リンク禁止サイトに無断でリンクをしたときに、相手から説明の要求をされて、これに筋の通る返答ができなければ、社会空間からはみ出してしまうことになります。これは無断でリンクをする側にとっては、気持ちの悪いことでしょう。また、無断リンクをされる側にとっても、OKであることが確定していないのに、それらしい説明に丸め込まれて受け入れさせられるのは、気持ちの悪いことでしょう。つまり、OKかどうか判らないのは気持ち悪いからこそ、議論が生じているのではないでしょうか。

議論で何を証明することを目指しているのか

無断リンク禁止サイトに無断でリンクしてOKか否かの議論では、いったい何を証明しようとしているのでしょう。上に述べた社会空間の前提を置くならば、

  • 行為者からその行為をされることを相手が受け入れなければならない筋の通る説明が存在しないならば、無断リンク禁止サイトへの無断リンク行為はOKではない

という命題は真でしょう。なぜなら、筋の通る説明が存在しないならば、相手から説明を要求されても行為者は相手に説明をすることができないからです。だとすると、目指すことは、この命題が無意味である(「AならばB」のAの部分が偽である)ことの証明ということになりそうです。

つまり、議論の目的は、無断リンクをしたい側も、無断リンクをされたくない側も、

  • 行為者から無断でリンクをされることを無断リンクの禁止を宣言している人が受け入れなければならない筋の通る説明は存在する

という命題が真であることの証明を見つけることであり、たとえば無断リンクをしたい側が証明の候補を提案するProver役を担い、無断リンクをされたくない側やOKであることに懐疑的な人が提案された証明が妥当かどうかを検証するVerifierを担当するというような協力体制のもとに議論がなされているとみなせなくもないような気がしています。

このProver-Verifier体制は、「文脈的なつながりを明かさないコメント行為」「論拠を明かすことなく結論のみを言い放つコメント行為」などのような、議論の形を取ることなしに他人を選んでなされるいわゆる「ちょっかい行為」がOKか否かを議論する際の共通の構造であって、あくまでも「行為者からそのちょっかい行為をされることを相手が受け入れなければならない筋の通る説明の存在」の証明が議論の目的となります。注意が必要なのは、「筋の通る説明が存在しないこと」の証明が議論の目的ではないという点です。たとえ「存在しないこと」が証明できなくても、「存在すること」が証明されない限り、そのちょっかい行為には社会空間における行為として「いかがわしさ」が残るわけで、その気持ち悪さこそが議論を生じさせる源であるからです。

無断リンク禁止サイトは何を要求しているのか

無断リンク禁止を宣言するサイトは、口先では無茶な要求をしているかもしれません。しかし、議論の観点からいえば、無茶な要求をそっくりそのまま真に受けて、わがままであることを証明することにはあまり意味はないように思います。無茶な部分を可能な限りすべて取り払って、それでもなお残る要求の最後の砦というべき部分にこそ、議論の対象としての本質があるような気がするからです。

では、無断リンク禁止においてなされる要求とは何でしょう。

  • 事前に許諾を得ることなしに俺の文書にリンクをするな

ではなくて、わがままであることを証明するのが難しくなるのは、

  • 俺の文書にリンクをすることを計画しているならば事前にその旨を俺に通告しろ

あたりではないかという気がしています。どこが違うのかというと、事前の許諾要求は、自サイトの削除・変更なしに相手にリンクを控えさせようとする虫のいい要求になっているのに対して、事前の通告要求では、相手にリンクを控えさせるためには自サイトの削除・変更との引き替えが必要になるという点です。

もしそうだとすると、証明すべき命題は、

  • 行為者から事前の通告なしにリンクをされることを事前の通告なしリンクの禁止を宣言している人が受け入れなければならない筋の通る説明は存在する

ではないでしょうか、言い換えると、少なくともこの命題が証明できない限り、事前の通告なしに無断リンク禁止サイトにリンクをすることには、社会空間における行為という意味において、いかがわしさが残るということになりそうです。

ProverとVerifierによる議論の流れ

無断リンク禁止サイトに事前通告なしにリンクしてOKであるということに関して、私個人としては、Proverの立場で提出できるほどに筋の通った証明の候補を見つけることに成功していないので、どちらかというとVerifierの立場でこの議論に臨んでいるというのが現状です。

たとえば、Proverがウェブそもそも論(つまり、ウェブの創始者が「誰もが事前通告なしにどのサイトにもリンクをすることができる環境」を望んでいたのだから、たとえ無断リンク禁止を宣言しているサイトであっても、ウェブの創始者が望む環境に逸脱しない行為である事前通告なしリンクをされることを受け入れなければならないという論)を証明の候補として提出したとしましょう。すると、Verifierは「この証明では、なぜウェブの利用者がウェブの創始者が望む環境に逸脱しない行為をすべて受け入れなければならないのかについての説明がなされていない」と指摘することになり、この指摘を加味した形で修正された証明が再提出されない限り、ウェブそもそも論は暫定的に却下されるというのが、ProverとVerifierの間になされるやり取りの典型です。

事前通告なしに書籍を引用することが法律で認められているという事実は妥当な証明となるか

上に挙げた例と比較してもう少し微妙な検証が必要な証明の候補に、たとえばリンク先の記事の先頭コメントにある

私の考えは「ネットであるか否かにかかわらず、公開されたものには言及してもよい。著作権法にもそのための規定がある」というものです。

http://browserjs.blog102.fc2.com/blog-entry-947.html

というようなものがあります。

しかし、ネット上の自サイトに個人が公開している文書については、書籍などとは決定的に異なる部分があるという意味で、同じようには扱うことには無理があるのではないかと感じています。

書籍において、なぜ事前通告なしに引用することが認められているのかと考えると、たとえ事前通告したとしても、著者は引用される書籍を公開されている状態から公開されていない状態に変更することによって引用を拒むという手段を取ることが不可能であるという事実に行きつくことと思います。

たとえば、公開した文書において何らかの議論がなされていたとしましょう。その議論の中でなされている主張に対して反論をすることは、議論の中でなされる主張は反論を受け付けることが前提であるという意味で、著者からの「なぜお前から俺の文書に言及されることを俺が受け入れなければならないのか説明せよ」との要求に対する説明になるでしょう。だとすれば、他人から言及を計画された場合に著者が取れる選択は、

  • 言及されるままにその文書を公開し続ける
  • その文書の公開を止めることで言及されるのを拒む

の2つということになりそうです。そして、書籍の場合には、流通に乗せた時点で、図書館などが来館者の望むままにその書籍を閲覧させることを著者が許諾している形になっているという意味で、公開を止めたくても止めることができない状況が生じてしまっているわけです。したがって、著者としてはいくら事前に言及の通告されたとしても、言及されるのを拒むことが不可能であるわけで、これが事前通告なしに書籍の引用が認められる根拠となっているのではないでしょうか。

では、ウェブ上で個人が自サイトに公開している文書はどうでしょうか。その文書の公開を止めるには、単純に自サイトからその文書を削除してしまえばいいわけです。Proverの立場の人の中には、ウェブサイトを閲覧した際にパソコンにキャッシュとしてコピーが残る場合があるから、自サイトの文書を削除したとしても公開を止めたことにはならないと主張する人もいるかもしれません。しかし、著者がそのコピーの閲覧を許諾しているのは、そのパソコンでそのウェブサイトを閲覧した人のみであって、そのコピーを他の人が望むままに閲覧させることまでを著者が許諾している形にはなっていないという意味で、図書館における書籍とは状況がまったく異なるわけです。また、その文書のコピーを勝手に転載しているサイトがあったとしても話は同じで、著者はそのサイトの来訪者が望むままにそのコピーを閲覧させることを許諾していないわけです。というか、本人の許諾なしにプライベートな写真や文書が誰かによってネットに公開されたときに、これを引用したりリンクをする形で言及することは正当な言及といえるのでしょうか。勝手に転載されたサイトを言及先とすることは、これと同じような微妙な問題を生じさせることになるような気がします。

つまり、現状では、「ウェブに一度公開したら来訪者が望むままにその文書のコピーを閲覧させることを著者が許諾したことになるような場」の法的な整備が待たれている段階にあるのではないでしょうか。そしてその意味で、ウェブ上で個人が自サイトに公開している文書に関して、「公開を止めようと思えば止めることができる」という解釈の可能性はまだ完全には排除されていないのではないでしょうか。もしもそうならば、今の時点において、公開された著作物に事前通告なしに引用することが法的に認められていることを根拠に、ウェブ文書も事前の通告なしにリンクしてOKであることを主張することには無理があるような気がします。

最後に

約10年にわたってこの問題に関心を持ち続けていらっしゃるえっけんさんのご主張の中に

「リンクは許諾を得てから行うもの」という考え方が常識になってしまうと、

「無断リンク禁止」問題についてかなりテキトーに考えてみた:ekken

という点を問題視されている部分があります。しかし、この考え方が出てきてしまうのは、無断リンク禁止を宣言しているサイトに事前通告なしにリンクをするという行為が平気でなされているという現実に原因があるのではないでしょうか。事前に許諾を得る必要はないにしても、事前通告なしにリンクをすることについては現状では(社会空間における行為という意味で)グレーなわけで、筋の通らないことを他人からされているという無意識の直感から生じる反発が過剰に起こっているという面が少なからずあるような気がします。

無断リンク禁止を宣言しているサイトへのリンクが、もしも事前通告したうえで文書の公開を止めるか否かの判断のための時間を与え、それでもなお文書が公開されていたならばリンクをするという手続きに則ってなされるようになれば、「リンクは許諾を得てから行うもの」という根拠のない主張も、それを主張することの直感的な気持ち悪さから、自発的に少なくなっていくのではないでしょうか。