人の嫌がることをしてはいけないのか?

「人の嫌がることをしてはいけないのか?」という問いに対して、単純に「してはいけない」と答えたくなる人も多いかと思いますけど、一方で、相手が嫌がるかどうかのみで「していけない」かどうかが決まるというのは、ちょっと不公平であると考える人もいることでしょう。

そのようなもののひとつに、セクハラ問題があると思います。相手に性的な言葉を投げかけたら、「性的な嫌がらせやめれ」と言われてしまうケースです。それまでお互いに性的な話題を題材に会話をしていて、その文脈の延長上で投げかけた言葉の一つを取り上げて「性的な嫌がらせやめれ」と言われたら、言われた側としては、「それは違うんでないの」と感じてしまうのも自然なことでしょう。つまり、相手の価値観のもとで好みに合わない言葉を発して相手に嫌な思いをさせることになったとしても、その行為が直ちに「してはないけない」行為であったとはいえないような気がするわけです。

では、「してはいけない」行為はどのようなときに生じるのでしょう。相手の価値観との関連性はどのあたりにあるのでしょう。

たとえば「なぜ人を殺してはいけないのか?」の問いの答えの一つとして、「『殺される相手がなぜ殺されることを受け入れなければならないのか』について筋の通る説明ができないから」というものがあると思います。セクハラについても同じでしょう。上の例において「それは違うんでないの」の背後には、「たとえあなたがこの言葉を投げかけられるのが嫌いであったとしても、この言葉を使わなければ文脈に即した会話が成立しないのだから、あなたは受け入れなければならない(さもなければ、会話から去れ)」という筋の通る説明が可能だからであって、実際「性的な嫌がらせやめれ」に対してこの説明を返せば、一件は落着するわけです(もしも一件が落着しなかったならば、逆に相手の人に対して「言葉狩りやめれ」と言い返すことが可能でしょう)。

つまり、「してはいけない」行為なのではないかという疑惑は相手の価値観によって生じるのかもしれませんが、実際に「してはいけない」行為であったかどうかは、相手の価値観とは無関係に、相手から疑惑を呈されたときに「なぜ相手がその行為をされることを受け入れなければならないのか」の筋の通る説明をするかどうかで決まるのではないかという気がします。

ブコメレス

くっぱさんは個性的な意見(決して揶揄ではなく)で、面白いことを書いていることが多いのだけど、致命的にその文章が読み難いのが残念だなぁ。

はてなブックマーク - ekkenのブックマーク / 2009年2月21日

肝心の「どこがどのように面白いのか」を明かすことなく結論めいたことのみを言い放っているという意味で、レビューとしては最低点。そのあたりがネガティブコメントコメントなんかにも共通する根本的な問題なのかも。

今回はほほうと思ったが、問題はその先のどうやって解決するの?という点なんじゃねということ

はてなブックマーク - lastlineのブックマーク / 2009年2月21日

受け入れる必要のないことを他人にされたと感じた人は、相手に「なぜ私があなたからその行為をされることを受け入れなければならないのか」と尋ることはできるでしょうけど、相手がその問いに返答することなく逃げた場合には、相手の無責任さを指摘するくらいしかできないのかも。世の中が無責任な人に寛容であれば、他人から無責任なことをされた人は、泣き寝入りするしかないのかもしれません。

他人の行動を制限するのは、合理的理由が無い限り、社会的に認められない、という話。

はてなブックマーク - kana-kana_ceoのブックマーク / 2009年2月21日

社会的に「認められない」かどうかは、世の中が無責任な人にどれだけ寛容であるかに依存しそう。

「気がします」で括るのがちと残念

はてなブックマーク - namnchichiのブックマーク / 2009年2月21日

暫定的な結論という意味です。筋の通る反論を募っています。

"さもなければ、会話から去れ"はどちらも投げられる。性的でなくても「嫌がらせやめれ」は既に"さもなければ、会話から去れ"の予告じゃないのかな。

はてなブックマーク - kilreyのブックマーク / 2009年2月21日

その通りで、「嫌がらせやめれ」は「お前からのその行為を俺が受け入れなければならない筋の通る理由を説明せよ(さもなければ、その行為をし続けるお前はこの場から去れ)」ということなのだと思います。議論における「俺の主張に筋の通る反論をせよ(さもなければ、俺の主張を暫定的に受け入れずにいるお前はこの場から去れ)」というのと同じ構造なのかもしれません。

報復を避けるためのTIPS

はてなブックマーク - napsucksのブックマーク / 2009年2月21日

意味が解りませんでした。

文脈の上で適切なら性的な言葉もセクハラにならないが、実際に適切かどうかはいってみるまで分からないから難しい、と。それが現実の面白いところであり、肘打ち食わしてやりたいところでもある。

はてなブックマーク - keiseiryokuのブックマーク / 2009年2月21日

相手が嫌がらせないことと、文脈にそった主張をすることが同時に成立しない場合、社会空間において必ずしも前者を選択しなければならないわけではないように思います。

「筋の通る説明」が出来る人と、「筋の通る説明」を価値あるものとして受け入れる人の間では、最初からセクハラ問題が起こらないと思うのですよ。

はてなブックマーク - junkcollectorのブックマーク / 2009年2月22日

「筋の通る説明」をする人と「筋の通る説明」を価値あるものとして受け入れない人の場合は、セクハラ問題というよりも言葉狩り問題が起きるわけで、セクハラ問題は純粋に「筋の通る説明」をしない人が生じさせているような気がします。

『この言葉を使わなければ文脈に即した会話が成立しない』嫌がらせの定義に意図が無関係ならここは検証されてしかるべきだとおもう。

はてなブックマーク - aozora21のブックマーク / 2009年2月22日

「筋の通る説明」がなされているにもかかわらず悪意の存在を決めつけるのは難しいような気がします。

「してはいけないこと」は簡単には決められないってだけだよね。原理がないから。ルールを決める社会の機能を否定しても仕方ない。

はてなブックマーク - NOV1975のブックマーク / 2009年2月22日

「してはいけないこと」かどうかの判断は難しいけれど、「無責任」かどうかは単純に「筋の通る説明」がなされたかどうかで判断できるような気がします。あとは世の中が「無責任」を「してはいけないこと」とみなすかどうかという話なのかもしれません。

これ「嫌がらせの意図はない」と結果的に同じことでは。こちらがいくら筋の通る説明ができても、相手に感覚的に受け入れ難いからやめろと言われた時点で(ry/そのことの是非は別として。

はてなブックマーク - ohnosakikoのブックマーク / 2009年2月22日

「嫌がらせ」であろうとなかろうと、「相手が受け入れなければならない理由のないことを自らの一存で他人になして嫌がられる」という状況が生じることには問題があるわけで、あらかじめ「相手がその行為をなされることを受け入れなければならない理由」を用意するなり、それができないならば、相手にその行為をなすことを諦めるなりするのが、同じ社会空間を共有する一因としての務めではないでしょうか。

あの手の、自分が不快な情報の存在自体が許せんタイプの人が、悪書追放運動とかやってるんだろうなぁ。

http://b.hatena.ne.jp/nekora/20090223#bookmark-12223583

ある本から言及された人が、悪書追放運動という形で、「なぜ自分がその本からその文脈のもとで言及されることを受け入れなければならないのか説明せよ」と要求をすることには何ら問題はないように思います。言及もされていないのに悪書追放運動がなされる場合には、別の要因が関係していそうですけど。