感想コメント行為と盗人行為の類似性

盗人が捕まったときに苦しい言い訳がなされることがあります。たとえば、つい出来心で他人の家の畑に入ってイチゴ(別にスイカでもいいけど)を盗み食いしたところを捕まってしまって、「何で俺が作っているイチゴを勝手に食うんだよ?」に「勝手に自生しているイチゴだと思ったもので、、」みたいな、どうみても白々しいとしか言えないような言い訳です。

しかし、なぜこのような苦しい言い訳がなされるのでしょう。どうせ白々しい言い訳しか言えないのなら、恰好悪い分だけ損だし、言い訳なんてしなければいいのではないでしょうか。なのに、なぜなのでしょう。

もしかしたらある人は、その盗人が「この人は自分自身のイチゴの所有権について周囲へのアピールが足りなかったことを理解し、私がイチゴを食べたという事実について当然の帰結であると認めてくれるに違いない」という期待をもって言い訳をしていると考えるかもしれません。そして、この盗人は自分自身の都合のいいようにしか物事を考えないような、とても常識はずれな発想をもった人物であると。しかし、そのように決めつけてしまうのはちょっと早合点という気がしないでもありません。というのも、そのような常識はずれな人物であることを想定しなくても、盗人による言い訳行為の理由を説明できそうな気がするからです。

なぜ常識はずれな発想をもった人物と思われてしまう危険を冒してまでわざわざ言い訳をするのか、その理由は、それよりももっと大切なものを守ろうとしているからではないでしょうか。つまり、言い訳をするという形をもって相手に礼をとり、「俺も同じ社会空間を共有しているメンバーの一人である」ということを証明しようとしているという解釈です。メンバーでないことを認めることは相手から害虫を駆除するかのように一存で痛めつけられても仕方がないという状況を生み出しますが、同じメンバー同士ならば一方がもう一方を一存で勝手に処分することはできないというわけです。もしも勝手に処分をしたら、その人こそがメンバーから外れることを意味するでしょう。

でも、なぜ「勝手に自生しているイチゴだと思ったもので、、」はOKなのに、「俺様が食べたいと思ったからだよ」みたいな言い訳ではダメなのでしょう。対話として成立していないからです。つまり、「何で俺が作っているイチゴを勝手に食うんだよ?」は、「同じ社会空間を共有しているメンバーから勝手にイチゴを食われることを俺が受け入れなければいけない理由を説明しろよ(さもなければ、お前はメンバーではなくて害虫か何かということになるよ)」と要求しているわけです。しかし、前者の「勝手に自生しているイチゴだと思ったもので、、」は「俺としてはメンバーの一人であるお前が所有するイチゴを食べるつもりは毛頭なくて、誰が所有しているわけでもないイチゴを食べたつもりだったのだけれど、俺の勘違いだった」という形で要求に対して返答をしているのに対して、後者の「俺様が食べたいと思ったからだよ」では要求に対して何も答を返していません。これでは相手に対して礼をとったことにはならないでしょう。

他人から自分が所有する物を盗まれた人は、相手から盗まれたものを返してもらえばそれで満足でしょうか。そうでない人は少なからずいることと思います。しかし、盗んだ人から上記の「勝手に自生しているイチゴだと思ったもので、、」のような言い訳を得たならば、仕方なく納得する人もいるのではないでしょうか。つまり、窃盗行為における問題は、少なくとも窃盗をした相手が捕まらない限りは、相手から盗まれたものが自分から失われるという点のほかに、なぜ自分が相手からちょっかいを出されなければならなかったのかについての文脈的なつながりの説明が相手からなされないという意味で、同じ社会空間を共有するメンバーの一人として相手から非常に失礼な扱いを受けているという点にあるような気がします。

ネットでも他人に対する感想コメント行為をよく見かけますが、似たような側面があるのではないでしょうか。つまり、相手と対話をしないという形で失礼な態度をとったとしても、捕まりさえしなければいいやみたいな。でもそれって窃盗をする人の態度と実はあまり変わらないのかもしれません。