「非生産的な議論例」について考えてみる

2009-01-14に非生産的な議論の例としてなかなか面白いものが挙げられていたので、私も少し考えてみたいと思います。

Aさん「何回も契約更新を繰り返して結果として同じ職場で5年も働いているのに、正社員になれず、有給休暇もボーナスももらえず不安定なままに置かれている人がいるのはおかしい!」


Bさん「でも、契約社員として自由な時間だけ働きたい人もたくさんいるんですよ。全員が全員、正社員になりたいわけでもないんです。働き方の多様性ということも考慮しないと。」

2009-01-14

これについてなんですけど、ここではAさんが相手を特定することなく上記の意見を表明し、Bさんはそれをしない自由が制限されていない状況のもとでAさんのこの意見に対する反応という形でコメントをした場合について考えてみたいと思います。さらに、Bさんは

(a)Aさんの主張に関する議論をするためにコメントをしたのであって、冷やかし、揚げ足取り、印象操作、論点のすり替え、思想や価値観の押しつけなど他の目的でコメントをしたわけではないという立場
(b)自身の表明した上記のコメントの内容

のどちらも取り下げたくないと仮定します。

議論の場において、Aさんは「自分が主張した表現には真となる解釈が存在する」という立場で主張をしていると暫定的に扱われます(なぜなら、自然言語を用いて解釈に曖昧性のない表現を与えることが一般に可能であるとは限らないから)。したがって、この状況のもとでAさんの主張に関して議論をする場合、「Aさんの主張した表現に真である解釈が本当に存在するか否か」が論点となり、Aさんの主張に対する反論には、自動的に「Aさんの主張した表現には真となる解釈が存在しない」という主張が含まれることになります。さらに、自身の主張を議論の一環として位置づけるためには、議論の中でなされた主張への反論という立場をとる必要があります。したがって、(a)を取り下げたくないという仮定により、Bさんは自身のコメントを表明することをもって、「Aさんの主張した表現には真である解釈が存在しない」と主張したことになります。

だとしたら、Aさんとしては「お前は『正社員になりたいと思っている契約社員が望んだ場合に正社員になれるようにすることは、働き方の多様性を損なうことにつながる』と述べている(つまり、お前のコメントに他の解釈は存在しない)が、その根拠を出せ(つまり、そのような根拠なんて存在しない)」という主張をもってBさんのコメントに反論をすることができそうです。

はたしてBさんは、「正社員になりたいと思っている契約社員が望んだ場合に正社員になれるようにすることは、働き方の多様性を損なうことにつながる」ことの筋の通る根拠を出すことができるでしょうか。もしできるのならば、どのような根拠が出されるのか私としてはちょっと興味があります。しかし、もし根拠を出さないのならば、「俺は『正社員になりたいと思っている契約社員が望んだ場合に正社員になれるようにすることは、働き方の多様性を損なうことにつながる』とは述べていない(つまり、俺は『契約社員は誰も正社員になることを望まない』と述べている)」と主張し、「契約社員が誰も正社員になることを望まない」ことの筋の通る根拠を出す必要があります。

もしもBさんが、Aさんからの反論に対して反論をしなければ、Bさんの最初のコメントは暫定的に取り下げられたものとして扱われます。Bさんも自分のコメントを取り下げたくないからといって、取り下げるつもりがないことを表明することはできません。なぜなら、反論された主張を取り下げず、しかし反論もしないという態度では議論をしていることにならず、「冷やかし、揚げ足取り、印象操作、論点のすり替え、思想や価値観の押しつけなど議論以外の目的でコメントをした」ことを自ら表明をしたことになるからです。

もしかしたらBさんは、「お前の表現では『企業は契約社員を5年も同じ職場で働せたら強制的に契約社員のポジションを剥奪して、正社員のポジションを与えるべきである』との主張が含まれているとも解釈できるから、お前はその主張をしているものとして扱われる。したがって、俺のコメントはお前の主張に対する反論として成立するから、もしお前が『企業は契約社員を5年も同じ職場で働せたら強制的に契約社員のポジションを剥奪して、正社員のポジションを与えるべきである』との主張をしていると解釈することが不可能であるということの筋の通る根拠を出さないならば、お前は最初の主張を取り下げなければならない。」と主張するかもしれません。しかし、この主張は議論をする態度とは言えません。もう一度書きますが、議論において反論でなされる主張は「お前の主張した表現には真となる解釈が存在しない」であって、「お前の主張した表現には偽となる解釈が存在する」ではありません。両者は明確に別物であって、後者を主張することは反論でも何でもありません。いたずらに議論を妨害する行為でしかないわけです。したがって、議論をしているという立場を取り下げたくないBさんとしては、上記の主張をすることはできないということになります。

他人の主張が間違っていると感じたら、なぜ間違っているかの根拠について考えましょう。そして、主張主も同じ根拠に到達しているものと考え、主張主が別の解釈のもとで主張をしている可能性を探りましょう。その過程において、真となる解釈が見つかったならば、主張主の主張は間違っていないと暫定的に結論付ければいいわけです。もしもその解釈と矛盾する態度を主張主が表明しているのを目撃した場合は、暫定的に得た結論を一旦破棄し、真となる別の解釈を探します。そしてついに真となる解釈が存在しないとの確信に至ったら、その時はじめて主張主に反論をすればいいわけです。そのような状態に到達する前に主張主に物申すのは、議論をするという観点からは時期尚早であり、別の目的で物申したということになります。

最後に、人と人とのコミュニケーションにおける議論の位置づけについて考えてみたいと思います。世の中、どうしてもしなければならない理由なしに赤の他人にアドバイスをするのは失礼という考え方をする人がいます。善意のアドバイスと称して、実は自身の思想や価値観を押し付けるようなことを言ってくる人も多いからです。また、直接、あるいは、間接的に自分の耳に届く可能性がある形で悪口を言う人を失礼であると感じる人も少なからずいることと思います。当然、そのような人たちは自分自身が他人に対して同じ行為をすることにも躊躇いがあることでしょう。しかし、議論においては、上に述べてきたように多くの制約があるために、相手に自分の思想や価値観を押し付けたり、悪口を言うことは不可能です。そのあたりが、価値観の異なる人とコミュニケーションを取る際に、議論をしているという立場を維持しようとする人が少なからず存在する一因になっているのかもしれません。