議論は零和ゲームではない

前々回の記事にトラックバックをいただいたので、こちらからも意見を書いてみたいと思います。

まず、根本的な点として、

でも「お互いの意見を交換し、理解を深めること」が目的なのだとしたら、そこに必要な具体的行動は「わからないことがあったら質問する」だけで充分なのではないでしょうか?

「議論において意見を撤回することは必要ない」という結論に至りました | ロテ職人の臨床心理学的Blog

の「理解を深めること」に「お互いの」が掛っているのかどうかが気になっています。というのも、議論の目的において、「お互いの理解を深めること」、つまり「自分だけではなく、相手の理解も深めさせること」が含まれているとするのは、議論を零和ゲームへと向かわせる要因となるような気がしているからです。

前回の記事にも書きましたが、私としては、議論をする際の大前提として、お互いに

  • 自分自身では現時点において可能と思われる最大限の論理構築をした。しかし、うっかりや経験不足による視野の狭さのために誤ることもあり得るという意味で、構築した論理が必ず正しいと言い切るほどの過剰な自信はない。もしも誤りがあるのならば、その誤りを誰かから指摘された時点で自分が構築した論理を修正したい。

というスタンスを維持する必要があるのではないかと考えています。つまり、議論の目的は、あくまでも自分自身の脳内に構築されている論理について自分自身で理解を深めることであって、自分の主張と衝突する主張をしている相手に反論をするのも、相手から有効な反論を引き出して、それをもって自分の主張における論理を再構築する必要があるか否かを検証するのに利用するためであると。

この目的のもとでは、相手への反論に騙しや引っかけを含めることは不可能になります。そのようなことをしたとしても、自分の主張に対する示唆に富む反論を相手から引き出すことに逆効果としかならないからです。つまり、お互いに相手の主張における論理の矛盾点や不備に鋭く切り込む反論を繰り出すことこそが、自身の構築した論理を理解するのに役立つ反論を相手から引き出す手段となるわけです。これって、相手に与えることの満足感を目的とせず、純粋に相手から提供してもらうことのみを目的としているにもかかわらず成立するWin-Winな関係(死語)の稀有な一例といえるのではないでしょうか。

一方、「相手の理解を深めさせる」が目的に含まれる場合、どれだけ相手の脳内の状況に影響を与えたかが目的達成の尺度の一つになってしまうわけです。ともすれば、どれだけ相手に意見を撤回させ、自分の意見を受け入れさせるか合戦になってはしまわないでしょうか。そして、それをするための手段として、騙しや引っかけなどの駆け引きが有効となってしまう場合すら生じ得ます。しかし、それはもはや議論とは言えないでしょう。

という前置きのもとで、

そして、ここまできてようやく、私自身がなぜ「意見を撤回すること」に対して「理由を求めること」にこだわったのか、ようやくわかりました。それは単純に「なぜ意見を撤回したのか」がわからないからです。

「議論において意見を撤回することは必要ない」という結論に至りました | ロテ職人の臨床心理学的Blog

についてですが、この「なぜ意見を撤回したのか」は、より詳しく言うと、もしかして「この人は『あなたの意見は撤回せざるを得ない状況にある』という私の主張の論理を本当に理解しているのか」ということでしょうか。しかし、もしも、「自分自身で理解を深めること」のみを目的としているのならば、相手がどのように理解していようと関係のない話です。だとしたら、相手が理解しているかどうかに興味を示すのは、「相手に理解を深めさせること」も目的に含まれることを意味することとなり、議論の参加姿勢としてはあまり望ましくないのではないでしょうか。

また、もしも純粋に「なぜ意見を撤回したのか」、つまり「意見を撤回せざるを得ない理由が自分では思いつかないから、教えてほしい」ということならば、議論の参加姿勢としては怠慢でしょう。なぜなら、議論において相手の意見と自分の意見を衝突させるということは、自身の脳内で最大限に論理構築をした結果、相手の論理に矛盾点や不備があるとの結論に至ったということを意味するのであり、その状況に達する前に相手の意見と衝突する意見を述べるのは時期尚早であるからです。

というわけで、議論において意見を撤回した相手に「なぜ意見を撤回したのか」との質問するのは、議論に参加する者の姿勢としては、いかがなものかという気がしないではありません。

言及レス

また、議論がなんたるかをよく解っていない人の意見を目にしたのですけど、

主観を入れないなんてことは、まず不可能だから零和ゲームではなくて、公益を図るものだとする意見は詭弁だろう。残念ながら、議論は零和ゲームなのだよ。

http://d.hatena.ne.jp/geul/20080929/1222665260

主観は好きなだけ入れてもかまいません。主観にもとづく意見に誰かから反論をされたら、その反論に対して反論を返すまでの間は暫定的に、その主観を前提に論を進めることができなくなるだけのことです。

そういった人々によって構成される議論は明らかに零和ゲームである。

http://d.hatena.ne.jp/geul/20080929/1222665260

零和ゲームになるとしたら、それは議論というよりは、意志決定を目指した何か別のものになっているからでしょう。議論と意思決定は別物です。意志決定は期限付きですが、議論に期限はありません。