ブックマークコメントと車の運転における共通点

表題について、私が候補の一つとして考えているものを書いてみたいと思います。具体的には、車の運転における幅寄せ行為の「危険」性とコメントにおける俺判定表明行為の「侮蔑」性を例に説明を試みます。

まず、幅寄せ行為についてですが、隣の車線にいる車とどの程度の距離を取るのかについては個人で判断しなければなりません。その際、

  • 個人に、寄せ幅に関して法的に「危険」とされる境目を正確に判断できるのか

という問題点が生じます。もしもそれができないのならば、

  • その人が「危険」ではないと扱っても構わないだろうと判断した範囲で最も自分の意図に適う寄せ幅を選ぶ

ことになるでしょう。そして、「危険」の俺範囲をもう少し広げるとより自分の意図に適う寄せ幅を選ぶことができる場合は、自分の意図を優先し「危険」の俺範囲を広げたいという誘惑に駆られてしまうのも自然なことと思います。寄せ幅を無限大に取れば「危険」が生じないのは確実だけれど、それでは複数車線の道は走れないので、結局のところ、「危険」の俺範囲は自分の意図をどれだけ通すかというあたりで決まってくることになるでしょう。

これと対応する形で、俺判定表明行為についてですが、誰かにコメントをする場合にどの言葉を吐くのかについては個人で判断しなければなりません。その際、

  • 個人に、吐き言葉に関して法的に「侮蔑」とされる境目を正確に判断できるのか

という問題が生じます。もしもそれができないのならば、

  • その人が「侮蔑」ではないと扱っても構わないだろうと判断した範囲で最も自分の意図に適う言葉を選ぶ

ことになるでしょう。そして、「侮蔑」の俺範囲をもう少し広げるとより自分の意図に適う言葉を選ぶことができる場合は、自分の意図を優先し「侮蔑」の俺範囲を広げたいという誘惑に駆られてしまうのも自然なことと思います。どの言葉も吐かなければ「侮蔑」が生じないのは確実だけれど、それでは相手にコメントを書けないので、結局のところ、「侮蔑」の俺範囲は自分の意図をどれだけ通すかというあたりで決まってくることになるでしょう。

つまり、両者における共通点の一つとして、

  • 他者から見て「お前どんだけ自分の意図を通してんだよ?」と感じられる人の存在

が挙げられるのではないでしょうか。

そしてそれを指摘することの根底には、すべての人が「欲望の垂れ流し」をした場合に生じることになる暴力的な衝突に対する嫌悪みたいなものもあるような気がします。言い換えると、道路もコメントも法だけでは必ずしも成立せず、一人ひとりの自制心に依って成り立っている側面が少なからず存在しているということなのかもしれません。