感想や批評での「面白い」「つまらない」は不必要

本や映画などの作品について「面白い」や「つまらない」とだけ表明することは、はたして感想と言えるでしょうか。例えば、ある作品に理由を明かすことなく「つまらない」と表明し、その作品の熱狂的なファンに「つまらないとは何事だ」と非難され、「個人の感想なんだから、お前にとやかく言われることはない」と反論するというやり取りにおいて、はたして「個人の感想」っていったい何なのだろうと思うわけです。

他人が書いた感想や批評を読む人の目的というのは、どのあたりにあるのでしょう。例えば、まだその作品に目を通していない人にとっては、その作品に目を通すだけの価値があるかどうかの判断材料にしたいという目的はあるかもしれません。含まれていて欲しいものが含まれていないことが判れば、目を通す価値がないと判断するでしょうし、含まれていて欲しいものが含まれていることが判れば、目を通す価値があると判断するでしょう。また、既にその作品に目を通した人にとっては、他人と自分がどの程度その作品に対する注目点を一致させているかに興味があるのかもしれません。

だとしたら、感想や批評には何が含まれることが必要かといえば、その作品に何が含まれていて、何が含まれていないのかということに関する情報ではないでしょうか。

個人の感想には、それを書く人がその作品に何が含まれていることに注目したのか、何が含まれていないことに注目したのかについて書けば十分でしょう。含まれている・含まれていないということに関する注目点は網羅的に列挙する必要はありません。自分自身が個人として特に注目した点についてピンポイントで書けばいいわけで、どの点に特に注目したかということを通して個人としての独自性が出るわけです。

批評の場合は、個人として何が含まれている(何が含まれていない)という点に特に注目したということだけでは十分ではなく、あらゆる人が注目する可能性がある点すべてについて、網羅的に何が含まれ、何が含まれていないのかについて紹介する必要があるでしょう。でなければ、単なる個人の感想と変わりありません。また、誰も注目しない点については書く必要はありません。つまり、誰かが興味をもって注目する可能性がある点と誰も注目しない点についてより分ける目が必要です。

個人の感想、批評のどちらの場合も、「面白い」や「つまらない」の表明がなくても、その作品に目を通していない人にも既に目を通した人にも役に立つ情報を提供することができるでしょう。つまり、「面白い」や「つまらない」の表明なんて、読む側にとっては必要ないわけです。

では、感想や批評の中での「面白い」や「つまらない」の表明の役割は何でしょう。誰にとって必要なのでしょう。読む人にその作品を「面白い」と思わせたい、「つまらない」と思わせたいという意図があるならば、それを表明することにはいくらかの効果があるのかもしれません。しかし、そのような読者の印象を操作することを目的に書かれたものはもはや感想や批評とは言えないのではないでしょうか。

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肯定と否定ってのは、対立じゃないわけよ。この場合は。二つセットで提示されて、どっちを信じるかは読むヤツが決めりゃいいの。金出して買って、つまんねえと思ったら、判断材料くらいは放出してもいいんじゃないか。

http://d.hatena.ne.jp/banana-cat/20080320/1205978624

もしも判断材料を放出するという意味で感想を書きたいだけなら、肯定も否定もすることなく、自分がその本に何が含まれている(あるいは、何が含まれていない)という点に注目したのかについてだけ書いておけばいいのでは。

誰かがその漫画を読むことで失敗してしまうことよりも、自分のサイトの読者が自分のサイトを読んで失敗したと思わないようにすることが重要でしょう。それを忘れてしまったら正に本末転倒です。

サイト読者のことを念頭に置かないと本末転倒になるよ、ということ。 - フラン☆Skin はてな支店

それは感想を書くことを目的としたサイトではなく、読者を集めるための餌として感想っぽいことを読者に迎合した形で書いているだけのサイトでしかないのではないかと。

「Something Orange」のようなサイトを訪れる読者は、この7万冊の蓄積のなかから読むべき本をさがそうとして訪れていると考えてもいいでしょう。

そのようなとき、「つまらなかった」感想はどのように役に立つでしょうか? 仮にその意見が正しく、信頼できるものだったとしても、あまり役に立たないのではないでしょうか。

個人サイトで「つまらなかった」と書く必要はない。 - Something Orange

たしかに、7万冊の蓄積のなかから読むべき本をさがそうとして訪れている読者に自分の薦める本を読ませたいだけなら、読ませたいわけではない本なんてわざわざ紹介する必要なんなさそう。

僕は、個人サイトだからこそ、誰のためにでもなく、過去の、そして未来の自分のために「つまらなかった」って書く意味があると思うんです。「つまらない」って感想そのものはつまらなくても、それを「つまらないと感じたときの自分」は、けっしてつまらない存在ではないですよ。

2008-03-25

でもそれならば、わざわざ誰でも読むことができるブログに書くのではなく、プライベートなチラシの裏にでも書いておけば十分という話になるような。

とはいえ、判断に迷ってる人やそれを生み出した人に対して「つまらない」という言葉がどれだけの影響力を持つかは考えないといけない。

2008-03-25

というか、判断に迷っている人や他人の意見を鵜呑みにする人に「つまらない」という印象を植え付けたいという場合以外は、「つまらない」などという言葉を使わざるを得ない理由なんてないわけで、その本に何が含まれていない点に自分が注目しているかのみを客観的に書けばいいだけのこと。

しかし、「個人」サイトであるからこそ、しがらみのない自由な感想なり批評なりが前提でなければ嘘じゃないでしょうか。ってか、「つまらない」と「面白い」は表裏一体ですから、「面白い」が不興を買うことだって十分あり得るわけで、その辺りはこうしたサイトを続けていく上で「つまらない」を言ってはならない決め手にはならないでしょう。

「面白かった」も「つまらなかった」も自由な世界 - 三軒茶屋 別館

「つまらない」や「面白い」の表明はそのような印象を植え付けるための操作でしかないわけで、それらをわざわざ表明しなくても、いくらでも自由な感想なり批評をすることは可能なのでは。

「一人の人間がこう思った」と書くことに価値はない?でもそんなことを言ったら、ほとんどのブログの存在意義がなくなってしまう。

http://d.hatena.ne.jp/hibigen/20080326/p1

一人の人間が作品のどんな点に注目したのかについて書くことには価値がありそう。ただし、その注目点の存在を根拠にその作品が「面白い」とか「つまらない」ものであるとの表明にはあまり価値がないような気がします。

ブクマレス

クソ相対主義の成れの果て、価値観の表明すらできなくなる糞馬鹿。何のために生きているんだ。

http://b.hatena.ne.jp/y_arim/20080328#bookmark-8036474

自分の価値観を表明することを目的に生きるって、いったいどんだけ(笑)

自主性の無い価値判断性向は面白いつまらないという単語が二元論だと思い込むという話。別のブックマークにも書いたけどマクロで見れば1000個の”つまらない”が集まってれば何らかの傾向は読み取れる。

はてなブックマーク - mgkillerのブックマーク / 2008年3月28日

1000個の「つまらない」と表明したい気持ちがあったことは読み取れたとしても、すべてが同じ理由で「つまらない」と感じたと思ったりしたらちょっと早合点かも。

蓮見重彦とかはくだらんとか一言で終わらせるか、「大日本人」とかマジスルーだったし。 ↓にもあるとおり、相対主義者って批評向きでないと思うよ。

http://b.hatena.ne.jp/mirrorperson/20080328#bookmark-8036474

その手の評論を求めている人って、作品に興味があるのではなくて、その評論家がその作品をどう思っているかに興味をもっているだけなのでは。

美しいものを単に「美しい」というのは無粋だ、と読んだ。あるものが美しいなら、その理由だけをくまなく描写すればいいのよね。言葉でなく状況に語らせよというか。

ある意味、小説なんかでもカッコいい人物を登場させたかったら、まんま「カッコいい」と言葉で書くのではなく、その人物の性格や立ち居振る舞いをもって読者にカッコいいと思わせるように描写すればいいのと似ているのかもしれません。

なんというか…ピンポイントな貴方のピンポイントな目的のために世の中の全ての人が文章を書いてるんじゃないんだからさ。

はてなブックマーク - iroseのブックマーク / 2008年3月28日

そう、世の中の感想と称しているものの中には、目的は別のところにあったりするものもありそうという話。

感想も批評もそれほど値打ちのあるものではないと思います。屁よりちょっとましな程度。だから、面白いつまらないでも充分だと考えています。俺のこのコメントはそれ以下の価値しかないのですが。

はてなブックマーク - boliviaのブックマーク / 2008年3月28日

「面白いつまらないでも充分だと考えて」いるのが書き手ならそうかもしれませんけど、読み手にとって「充分」だと思うのは、作品そのものではなくて、感想や批評の書き手がその作品をどのように思っているかを知りたい人くらいなのではないでしょうか。

あらゆる人が注目しそうなものを全部網羅、って……それ全文引用するしかないじゃん。/相対主義というか、変に批評に客観性を求めすぎの人がいるなぁ。主観が入ったら全部、印象批評とか。

http://b.hatena.ne.jp/araignet/20080328#bookmark-8036474

全文引用みたいなことをして誰も興味をもって注目しないようなものまで批評に含めてしまっては、批評の腕を疑われるというものでは。

専門書や実用書だけに通用する議論。/ 小説、映画などは筋だけを楽しむものではないので要約は無意味。また筋を楽しむような推理小説、サスペンス映画などの要約は決して誰も読まないだろう。つまり無意味かつ不必要

はてなブックマーク - yamatedolphinのブックマーク / 2008年3月28日

要約が感想だと思っているのは夏休みに読書感想文の宿題を出された小中学生くらいのような。作者の新しい発想や着眼点、表現の工夫などについて語ることはいくらでもできるのでは。

ど う で も い い

はてなブックマーク - fjskのブックマーク / 2008年3月28日

と「是 が 非 で も 表 明 し て お き た か っ た」と。

要約すると「僕が面白いと思っている作品を批判するな」って事ですね。それに、その作品に何が書かれているかを詳しく書かれると、そっちの方が迷惑です。ま、「坊やだったな」と思う時もそう遠くないですよ。たぶん

はてなブックマーク - furiute3のブックマーク / 2008年3月28日

話が脳内でかなり先のほうまで進んでいらっしゃるようで。とりあえず、その作品に「何が書かれているか」ではなくて「何が含まれているか」なんですけど。

批評はともあれ、感想で「面白い」や「つまらない」を除外したら何を語れるかなあ。blogでは「誰が」面白いとかつまらないとか言ってるのかがリンクされているわけで、それは充分な情報足りうると思うんだけどなあ。

http://b.hatena.ne.jp/yellowbell/20080328#bookmark-8036474

何が十分に含まれていたから「面白い」と感じたのか、何が足りなかったから「つまらない」と感じたのかを語ればいいのでは。

「理由」さえしっかり書いてあれば「面白い」も「つまらない」もアリだと思う。趣味は合うのに判断が異なるってのも読んでて楽しいし。

はてなブックマーク - sugimo2のブックマーク / 2008年3月28日

その楽しんでいる部分というのは、作品に対する興味というよりは、感想を書いた人の好みに対する興味の部分なのではないかと。

『「面白い」や「つまらない」とだけ表明することは、はたして感想と言えるでしょうか』 言えるのでは。現に、『個人の感想と変わりありません』 と書かれている。/ 読む側にとって必要ない、は自由。書く側の(字足ら

はてなブックマーク - suVeneのブックマーク / 2008年3月29日

文脈の構成について何か思い違いをされてはいませんでしょうか。

あれが不必要これも不必要とか言いだしたら、そもそも必要な物なんてなにもないから。

はてなブックマーク - adoratioのブックマーク / 2008年3月29日

感想や評論には少なくとも何かが必要だと思いますけど。

「面白い」「つまらない」と「誰にも納得してもらえない理論の垂れ流し」とでどのくらい存在価値が違うというのか。

はてなブックマーク - NOV1975のブックマーク / 2008年3月29日

作品や理論のどの点に注目してその判定に至ったのかが重要であって、感想における判定結果の表明そのものの価値の無さは3つとも同レベル。

感想は「感じたこと」「想ったこと」なんだから、別にいいんでない? 批評は「批判」「評価」だからある程度客観的なものである必要はあるだろうけども

はてなブックマーク - takerunbaのブックマーク / 2008年3月31日

感想は「感じたこと(どの注目点から何を読み取ったか)」「想ったこと(どの注目点から何を発想したか)」であって、「面白い」とか「つまらない」の判定結果を表明することとはちょっと違うのでは。