表現規制運動は無理解による恐怖に基づくのか?

人間って理由がつけられないことについて恐怖を覚えることが多いわけだ。昔の人は妖怪の仕業にしたりたたりのせいにして説明をつけていたし、妖怪がいなくなった今、科学的な説明が試みられているし、とにかく、意味不明というのは怖い。あと、暴力も怖い。暴力の伝説も時に鬼になったり神隠しになったり。そういった怖いものに蓋をすればするほど、閉じ込めている妖怪たちが邪悪な度合いを増すように思えてしまうのは、閉じ込めている罪悪感のなせる業なのかもしれない。

直視できないならそれでも構わないけれども、お化けの森を破壊しておいて復讐を恐れるようではどうしようもない。

目に入って傷つくのは普通のことだけど - novtan別館

これを読んで、論旨はよく読み取れなかったけれど、関連しているかどうかは別として少し思うことがあったので書いてみたいと思います。

児童ポルノ表現規制に関する意見をブログなどで読んでいると、表現規制を推進する側の気持ちとして、なぜ児童ポルノを好むのかについて理解できないためにその(それを好む人たちが何をしでかすか判らないという意味での)恐怖心に基づくものであると分析している意見もあるようです。

しかし、「何をしでかすか判らない」という同じ恐怖心であっても、私自身としては、他人の好みが理解できないという理由はそれほど恐怖心につながらないケースが多いような気がしています。それ以上に恐怖心につながりやすいのは、一つ前の記事の内容にも関連しますけど、「自身の欲望を他人を気にすることなく発露させて平気でいるさま」を目の当たりにしたときなのではないかと思うのです。

脳内で何らかの欲望が生じたとしましょう。その欲望を実現する際に、他人が納得できるような建前を揃えて実現したならば、その行為に対して誰も恐怖心は抱かないでしょう。つまり、他人が納得できるような建前をきっちりと準備してから、その建前のもとに欲望を満たすための行為を実行するという手もあるわけです。そして、この手順を踏むことこそが、無理な欲望を無茶な方法で実現しようとする試みを制限し、欲望の暴力的な衝突を回避するメカニズムを提供しているという側面があるのではないでしょうか。

欲望をもつことは誰にも制限することはできません。しかし、たとえどのような欲望をもっていようと、他人を納得させることのできる建前を用意できない限りその欲望の実現を先延ばししたりあきらめるという人に対しては、恐怖心は生まれないでしょう。怖いのは、その建前を準備しきる前に先走って欲望を満たすための行為を実行してしまう人です。つまり、自制のできない人、手段を選ばない人、何をしでかすか判らない人という印象を与えてしまうわけです。

ファンタジーであっても、緻密で自然な世界観がきっちり作りこまれているならば、その世界観を受け入れ納得する人は多いでしょう。一方、荒唐無稽でご都合主義なファンタジーでは、単なる「欲望垂れ流し」として興醒めしたり恐怖するでしょう。そのようなものチラシの裏ならぬ脳内にでも書き込んでおけばいいのに、なんで表に出してくるんだ?と。

まとめます。

表現規制運動が起こる原因は、欲望をもつことが理解されていないというよりも、欲望の単なる無節操な「垂れ流し」に見えてしまっているあたりにあるのではないでしょうか。

ブクマレス

まあそうかもしれないけど、食欲とか、権勢欲の発露はそれほどグロテスクに捉えられないよね。なんでだろ

はてなブックマーク - NOV1975のブックマーク / 2008年3月24日

豊臣秀吉の晩年の権勢欲はなかなかにグロく描かれることが多いような気がしますけど、どうなんでしょう。食欲も権勢欲もグロく見せないための作法みたいなものがある程度固まっていて、そこから大きく外れるとエロ表現規制運動みたいに欲望垂れ流しを押さえ込もうとする力が働くせいで、知らず知らずのうちに作法に従うというダイナミクスが生じているということなのではないでしょうか。

にしても、全然絡まないなら引用しなくていいのに。

はてなブックマーク - NOV1975のブックマーク / 2008年3月24日

「欲望垂れ流しに蓋」ではない「怖いものに蓋」って、いったい何のことをイメージしているのかということなのですけど。人から人への感染力が疑われる奇病なんかは、感染力がないことが明らかになるなど安全性が理解されるまでは、とりあえず隔離するなどして蓋をしておくのは自然なことだと思いますけど。