児童ポルノ表現の真の暴力性

児童ポルノ規制についていろいろなブログでの意見を読んでみたのですけど、

http://d.hatena.ne.jp/araignet/20080316/1205667464

はなかなか勉強になりました。特に、目からうろこ的に響いたのが、

恐らく女性たちの本音を探れば、彼女たちは鬼畜ロリの排除をロリの排除に拡大したいと願うよりも、年齢に関係なく鬼畜表現の排除に拡大したい、というところだと思う。ところが日本の猥褻物規制は、鬼畜表現の排除を指向していないので、強制力のある児童ポルノ禁止法を使って、ロリにおける鬼畜表現から消滅させたい、というのが本当のところなのではないだろうか。だから、児ポ法に伴う御題目は形式上のものであって、そもそも問題はペドフィリアにない可能性すらある。

http://d.hatena.ne.jp/araignet/20080316/1205667464

の部分です。中でも、最後の一文。もしかしたら、そうなのかもしれないと。

それで少し考えてみたのですが、鬼畜表現ですら実は問題の本質ではなくて、もっと別のところに嫌悪感というか排除を指向されている暴力性の実体が存在しているのではないかという気がしてきました。

例えば、テレビドラマなどを見ていると、人が人に殺されるシーンなんてよく出てくるわけです。人が人の命を奪うわけですから取り返しがつきません。これほど鬼畜なことはないでしょう。しかし、そのようなシーンはある程度の市民権を既に得ているように見えます。なぜでしょう。その手のシーンは、それに含まれるある種の暴力性が薄いからなのではないかと思うのです。

では、その暴力性の有無とは何か。ずばり、それを表現する人が「他人を気にすることなくやりたい放題をすることを躊躇うだけの自制心をもっている(ことを表現物を通して説明している)かどうか」というというあたりに関係があるのではないでしょうか。「他人を気にすることなくやりたい放題をしても全然平気」という傍若無人な態度というのは、ある種の暴力でしょう。

ならば、「自制心をもっていることの説明」はどのようになされるのか。テレビドラマなどの殺人シーンでは、なぜ殺したくなった(あるいは殺さざるを得なくなった)のかについての何らかの状況設定のもとに殺人がなされるのが普通です。作家や脚本家が必死になって、自分が表現したいシチュエーションを実現するために、さもありなんと納得できるようなリアルな状況設定を苦心しながら捻り出しているわけです。だからこそ、視聴者はその起こりそうにないシチュエーションがなぜ起こり得たのかを理解することをもって、「制作者が他人を気にすることなくやりたい放題に自分が表現したいものを表現しているわけではない」ことに納得し、そのシーンを受け入れるという面があるような気がします。

早い話、他人によってありのままに表現されたご都合主義の妄想や一方的な願望を目にするのは目障りというのがあるのではないでしょうか。夢落ちという手法があまりもてはやされないのも、夢の中身がご都合主義になってしまっているからかもしれません。つまり、求められているのは、「表現するからには、ご都合主義ではない形にしろよ」ということなのではないかと。

で、児童ポルノに戻りますけど、鬼畜ロリなんてそりゃもうご都合主義もいいところなのではないでしょうか。よく知らんですけど。

もしも表現者として自主規制によって表現規制を回避したいならば、方向性としては、状況設定における現実的なリアルさを追求し必然のもとに表現することではないでしょうか。それなしには、ご都合主義という暴力性に対する嫌悪感を拭い去ることはなかなか難しいような気がします。