残虐なコンテンツを子どもにわざわざ見せる必要はあるのか?

有害コンテンツ規制を話題にした

残虐なコンテンツを子どもにみせるべきか - 雑種路線でいこう

という記事を発端にして、子供に残虐なコンテンツを見せるべきかという観点から様々な意見が出されているようです。

例えば、

残虐なコンテンツを子どもに見せないのは、子どもに意味がわからないため - finalventの日記

http://app.blog.livedoor.jp/dankogai/tb.cgi/51021354

のやり取りでは、子供に残虐なコンテンツを見せても意味が理解できないから、理解できるようになってから見せても遅くはない(から、それまでは見せるべきではない?)というfinalventさんの意見に対して、小飼弾さんから子供は残虐なコンテンツを見るからこそ(あるいは、自ら残虐な行為をしてみるからこそ)残虐の意味することが理解できるようになるのではないのか?との突込みが入ったという解釈でよろしいかと思うのですけど、鶏が先か卵が先かといった感じでなかなかに興味深い気がしました。ただし、それに対する

回答みたいなもん - finalventの日記

での、親が「百聞は一見にしかず」の「百聞」を与えることで子供に残虐を理解させるという回答では、「一見」なくして理解するのは難しいのでは?という弾さんの問いには応え得ていないのではないかという気がしないでもありません。

もう一つ挙げると、子供たちには

沢山のうめき声と沢山の泣き声と沢山の血と沢山の屍体を見るべきだ。見なければならない。

そして沢山の「何故」を考えなければならない。


残虐なコンテンツが「今」存在するのなら、それは見せなければならない。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20080320/1205987397

というululunさんの意見。ちょっと判らないのが、「誰が」それを子供に見せなければならないのかという点ですが、親が、学校(つまり国家)が、のどちらであったとしても、私個人としてはそれはちょっと嫌かなという気がしないでもありません。というか、子供にそれを見せなければならない理由は、沢山の「何故」を考えなければならないということから来ているのではないかと文脈から私は解釈してみたのですが、しかし、なぜ沢山の「何故」を考えなければならないのかという点については、今ひとつ不明瞭ではないでしょうか。

さて、いろいろ興味深い意見を読んだ後で、私自身もどのような意見を思いつくか考えてみました。それで思ったのですが、子供に残虐なコンテンツを見せてはならない、見せなければならない、というのはコンテンツを見せるタイミングの制御の話ですよね。私個人としては、そのようなタイミングのコントロールなんてしないで、子供が何らかの偶然や必然が重なって見る機会を得たときに見たらいいのではないかという意見です。逆に、子供ではない誰かが子供に意図的に見せた場合には、見せた人はそのタイミングが本当に適切であったかどうかについて責任を問われるみたいな感じで、タイミングは子供自身や神様に任せてしまうというイメージです。というか、最適なタイミングの決定なんて人間にできる技ではないでしょう。残虐なコンテンツを排除もしなければ押し付けもしないで、子供が自然に見るに任せてしまうのが割りとうまくいく方法なのではないでしょうか。

あと、本題とはあまり関係ないかもしれませんが、もしかしてululunさんの

私はその光景を見て泣いてしまった。

当然のように私には「弱虫」というレッテルが貼られたのだけれども、私は写真に撮られた人の気持ちを考えると、可哀想で仕方がなくて泣いたのだった。

誰が望んで水俣病に罹患するのかと。誰が望んで罹患した姿を写真に撮影されるのかと。誰が望んで自分の姿を見て「きゃー」と言われるのかと。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20080320/1205987397

は、それに加えてもう一つ「誰が望んで自分の気持ちを勝手に解釈されて、可哀想扱いされて泣かれるのかと。」を書き忘れてはいないでしょうか。