責任を語るとき

「責任」という概念、あるいはこの言葉の用いられ方について、私個人としては常々謎深いというか奥深いというか霧に包まれているような気がしているのですけど、その霧のヴェールを少しでも剥がすべく、この概念の解釈について性懲りもなくチャレンジを続けてみたいと思います。

で、以前にも似たことを書いたのですけど、今現在の私の仮説としては、

  • 「(ある状況に対する)責任」=「(その状況にあることについて)相手を納得している状態にすること」

というあたりではないかと考えています。(もしもこの仮説に異論がある方がいましたら、どのような意味で異なるのかについて遠慮なくコメント欄に書き込んでいただいて構いません。)

さて私が気になっているのは、「あなたは私に責任がある(あなたは私に責任を取らなければならない)」や「あなたの自己責任だ(あなたは自分自身に責任を取らなければならない)」などの主張です。

まずは、「あなたは私に責任がある(あなたは私に責任を取らなければならない)」についてですが、上に述べた解釈で言い直すと、「あなたは私を納得させなければならない」ということになりそうです。もちろん、「私自身で私を納得させる」つもりであるならば、「あなたから私を納得させてもらう」必要などないわけで、このことから前提として「私自身で私を納得させることを特にするわけではない」ということも言えるでしょう。しかし、だからといって「あなたは私を納得させなければならない」ということにはなりません。なぜなら、「私は、私が納得している状態になることを望んでいる」と「あなたは、私が納得している状態になることを望んでいる」とは別物だからです。

たしかに「あなたは望んでいる」が正しいと言い得る場合には、「私自身で私を納得させることを特にしない」うえに「第三者が現れて私を納得させてくれる」ことも期待できそうにないないならば、「あなたがあなたの望みをかなえるためには、あなたが私を納得させなければならない」とは言えそうです。しかし、「あなた」にとっての他人の「私」がどのような論法をもって「あなたは望んでいる」ということを言い得るのでしょう。

「私はあなたに責任がある」という主張の場合は、「(あなたが納得している状態になることを望んでいて、しかし、あなた自身であなたを納得させるつもりではないかもしれないし、)私は私があなたを納得させないことをもってあなたと敵対することになることを望まないから、私はあなたを納得させなければならない」と自然な解釈を与えることができます。ここで、「自然な」とは、自分の望みについては前提として用いているものの、他人が望んでいることについてはあくまでも可能性としてしか用いていないという意味で用いています。一方、「あなたは私に責任がある」という主張の場合、はたして上に述べたい意味での自然な解釈は可能なのでしょうか。「あなたは望んでいる」という勝手な決め付けのもとになされている可能性を排除することはできるのでしょうか。

次に、「あなたの自己責任だ」、言い換えると「あなた自身であなたを納得させなければならない」という主張についてですが、こちらも同様に何らかの決め付けのもとになされている可能性を指摘できるような気がします。つまり、「私はあなたを納得させることを特にしないかもしれないし、第三者が現れてあなたを納得させてくれることも期待できそうにないわけで、私と敵対することを望んでいないあなたが、納得した状態になりたいう望みをかなえるためには、あなた自身であなたを納得させなければならない」ということになりそうですが、「あなたはあなたが納得した状態になることを望んでいる」についてはいいとしても、「あなたは私と敵対することを望んでいない」についてはどのような論法をもってそう言い得るのかが明らかにならない限り、単なる決め付けである可能性が残るわけです。

「私はあなたに責任を取らない」は「私はあなたと敵対することになっても構わない」ということの表明であるのに対して、「あなたの自己責任だ」は「あなたは私と敵対することを望んでいない」ということの主張です。前者は自分自身のことなので、正しいものとしていくらでも表明することは可能でしょう。しかし、後者は他人のことなので、いったいどのような論法を用いたらその主張が正しいと言い得るのでしょう。

まとめてみたいと思います。

他人の責任について語ることは、その他人が誰と敵対することを望んでいないのかということについて主張することであって、しかし語られた側の人にとっては「他人であるお前がなんで、俺が何を望んでいるかについて知ってんだよ?」みたいな、単なる決め付け発言にしかなっていない可能性がありそうです。そしてこの意味で、他人に対する決め付け発言をするのが平気というわけではない人にとっては、誰かの責任を語るにしても、他人の責任ではなく自分自身の責任について語るにとどめておくのが安全かもしれません。