ウェブそもそも論の謎

ウェブにおけるリンク・被リンクに関してウェブの理念なるものを持ち出して主張がなされることがあります。しかし、そのような主張をよく読んでみると、もしかしたらその人の個人的なローカルな価値観のもとでは成立しているかもしれないけれど、それ以上のことは言い得ていないのではないかと感じられるものを目にすることもあります。

最近目にしたものの中では比較的丁寧に理由を書いてあると感じられるという意味で

を例として取り上げさせていただいて、論理に飛躍があると感じられるいくつかの点について指摘してみたいと思います。

ネットワーク化することが嫌なら、WWWに公開するべきではない。WWWに公開することとはすなわち全世界に公開することであるし、誰でも自由にリンクできるということなのだ。

2007-10-02

全世界に公開するというのは、そのサイトの存在を知った人は誰でもそのサイトにアクセスすることができるという意味では正しいと思います。また、そのサイトの存在を知った人は誰でも、そのサイトにリンクをする自由は制限されていないというのも正しいと思います。しかし、それらのことから、「ネットワーク化することが嫌なら、WWWに公開するべきではない」という結論がどのように導かれるのかという点は、あまり明らかではないような気がします。

リンクをしたい人は、自分のサイトから相手のサイトへのリンクが存在するネットワークトポロジーが望ましいと主張し、リンクをされたくない人は、相手のサイトから自分のサイトへのリンクが存在しないネットワークトポロジーが望ましいと主張しているのであって、ネットワーク化という観点からはどちらも主張としては同格であるといえないでしょうか。

だとしたら、「ネットワーク化することが嫌」から「リンクをされたくない」という人たちは除外されることになるわけで、除外後にはいったいどのような人たちが残るのでしょう。

システムはユーザーを制約してはならない。どの文書についても、それがたまたまどこに保存されていようと、同じようにたやすくリンクできるようになっていなければならない。

Webの創成 World Wide Webはいかにして生まれどこに向かうのか(P49-50)-
(Tim Berners-Lee著/高橋徹監訳/毎日コミュニケーションズ)

だから、「リンクされるのは嫌だ」というのは異様な主張である。

2007-10-02

単にシステムの設計の話であって、システムを利用する人が「リンクされるのは嫌」かどうかとは別次元の話ではないでしょうか。だとしたら、「リンクされるのは嫌」が異様な主張であるという主張の根拠は今ひとつ明らかではないような気がします。

本来の理念に沿ってWWWを活用しようという人に、「自分が嫌だから」という理由で文句を付けるのはただのわがままであり、WWW上のマナーに著しく反している。

2007-10-02

WWWの理念についてわざわざ「本来の」とつけなければならないほどに、現時点でのWWWはすでに本来の理念にもとづいて尽力していた人たちの手からは遠く離れてしまっている状況にあるのではないでしょうか。だとしたら、本来の理念に沿ってWWWを活用しようという人の主張が優先されて、そうではない人の主張がわがままであると言い得るのかについての根拠はどのあたりにあるのでしょうか。

せめてWWWの普及と発展に貢献した人たち、その中でもバーナーズリーには敬意を払ってほしい。私に対してはどうでもいいから、これから一回無断リンク禁止を言うたびに、バーナーズリーの墓前に手を合わせてほしい。

2007-10-02

誰が誰を崇拝するのも自由ですけど、ウェブはもはやその人たちの手から離れてしまっているのだから、ウェブの本来の理念を持ち出して他人にものを言ったとしても、自分の信じる宗教にもとづいて他人に一方的にものを言っているのとあまり違いがないような気がします。

ブックマークコメントへのレス

Webの起源を持ち出されると無断リンク禁止側にとって不利なので、そもそも論を禁止したい。というのが本音かな?

はてなブックマーク - takoponsのブックマーク / 2007年10月13日

それはご自身にとって都合のよい憶測にしかなっていないような気がします。

そもそも論の多くは、「主張」は自由だけど、「実現」はできないよという忠告なんだと思う

はてなブックマーク - lastlineのブックマーク / 2007年10月13日

しかし、その忠告はいったい誰に求められてなされた忠告なのかというあたりがちょっと謎深いところです。

リンクされてない孤立したリソースは、公開されていると言えるかどうか。

はてなブックマーク - kana-kana_ceoのブックマーク / 2007年10月13日

そのリソースの存在を知っている人は誰でもアクセスできるという意味では、公開されていると言えるような気がしますが。

新たな勢力やルールを主張するのは個人の自由だけど、それが多数派だとか、法的に裏づけがあるとか、社会的認知レベルまでもちこまないと、ただの空論で終わる気がするなぁ。

はてなブックマーク - mintanのブックマーク / 2007年10月13日

新旧を問わず勢力やルールなんて所詮ローカルなものであって、それを根拠に他人に何かを言ったとしても、自分の価値観の殻の中から外に向けて言いっ放し発言をしているだけにすぎないような気がします。その意味で、そもそも論もマナー論も慣習論もすべて一方的なローカル発言でしかありません。

接続料するためにお金を払って使っているわけだが、使用条件に公開する義務を含んでいるようなものじゃないかな、システムって話だと。ATMが時間外手当てを取る理由はわかるけど俺はいや、って表明が意味ないような話

はてなブックマーク - NOV1975のブックマーク / 2007年10月14日

何に何を喩えているのか意味がよく解りません。