誰が言っているのか

無断リンク禁止論争においてよく目にするものに、自分のローカルにおいて存在していると感じている秩序を、相手のローカルにおいても一般に存在しているかのように適用して、相手の行為や態度についてものを言うというものがあります。例えば、「禁止宣言をしているサイトに無断リンクをしないのはマナーだ(マナー違反は心ない行為)」「無断リンク禁止宣言をしないのは慣習だ(慣習無視は迷惑な行為)」というようなものです。しかし、そのような秩序の存在を前提に相手を「心ない人間」や「迷惑な人間」と扱うにもかかわらず、その秩序はまるで「言った者勝ち」であるかのような感じで勝手に導入されているのかもしれません。もしもそのような場合には、「納得せざるを得ない根拠を説明することなく一方的に他人を悪人であると決め付ける」行為をなしたという事実が自動的に生じることになるでしょう。

例えば、ある人が「禁止宣言をしているサイトに無断リンクをしないのはマナーだから、無断リンクをしたあなたは心ない人だ」と言われたとしましょう。もし本当にそれがマナーならば、それを無視した自分が心ない人であると言われたとしても仕方がないのかもしれません。しかし、「禁止宣言をしているサイトに無断リンクをしないのはマナー」かどうかについて、もしもこれが事実でなければ、「心ない人」という結論を導くための根拠とはなり得ません。もし導けるとしても、それを言っている人の価値観の殻の中でのみ成立することが保証されるものでしかなく、その殻の中から外に向けられた悪口でしかありません。

では、「無断リンクをしたあなたは心ない人だ」と言った側の人としては、自分が「納得せざるを得ない根拠を説明することなく一方的に他人を悪人であるとの決め付ける」行為をなしたのではないということを説明するには、どうしたらいいのでしょう。「禁止宣言をしているサイトに無断リンクをしないのはマナー」であるという秩序がローカル横断的にこの世の中に確かに存在していることを説明するには、どのようにしたらよいのでしょう。

重要なのは、「禁止宣言をしているサイトに無断リンクをしないのはマナー」であると誰が言っているのかです。それを導入した人が「俺が言っている」と言ったとしても、それをマナーであると認めることができる人として保証されるのは「その人が言うことを軽視したくない人」に限定されます。かなりローカル限定という色合いの強い状況と言えるでしょう。「心ない人」扱いされた側としては、「おまえが勝手に言っているだけのことをなぜ俺が受け入れないといけないのか?」という状況であるとも言えると思います。また、「俺が言っている」の「俺」が他の人の変わっても同じです。例えば、世界で最大の勢力を誇る宗教の教主が「マナーである」との見解を示していたとしても、それをマナーであると認めることができる人として保証されるのは「その教主が言うことを軽視したくない人」に限定されます。それがマナーであるという根拠も、その教主がそのようか見解を示しているというだけのことに他なりません。

かといって、「通常は7〜9割の人がこれがマナーだということくらい理解できそうなのに」と言ったところで、これもまた誰が「通常は7〜9割の人が」と言っているのかということになります。つまり、「7〜9割の人が理解できる」と認めることができる人として保証されるのは、「その人が言うことを軽視したくない人」に限定されます。つまり、自分のさじ加減でものを言っている限り、ローカルの枠から外に出てものを言うことはできないのです。

何らかの説明をしたうえで「マナーだと考えることには合理性がある」と言った場合も、これまた誰が「合理性がある」と言ったのかという同じ問題に行き着きます。つまり、「合理性がある」と認めることができる人として保証されるのは、「その人が言うことを軽視したくない人」に限定されるので、その合理性に基づいて他人を「心ない人」と決め付けたりしたら、やはり「納得せざるを得ない根拠を説明することなく一方的に他人を悪人であるとの決め付ける」行為をなしたという事実は生じることになるでしょう。

結局のところ、マナーや慣習、合理性のようなものは、論争が存在する限り、ローカル横断的に存在している秩序であると説明することは無理なのではないでしょうか。もしそうだとしたら、そのような秩序の存在を根拠に挙げて他人を「心ない人」「迷惑な人」「理屈の通らない身勝手な人」であると主張をすることは、「納得せざるを得ない根拠を説明することなく一方的に他人を悪人であるとの決め付ける」行為をなしたということを意味することになるような気がします。

なお、「マナーである」と主張する側から、「それがマナーでない」と誰が言っているのかという問い返しがあるかもしれませんが、それは詭弁です。「マナーではない」ことが説明できなかったとしても、「マナーである」ことの説明にはなりませんし、それ以前の問題として、「マナーである」ことの説明を求めている側は「マナーではない」ことを主張しているのではなく、「マナーであるか否かについては現状では何も言い得ていないのではないか」と主張しているのですから、「マナーではない」ことを説明する必要はありません。

ブックマークコメントへのレス

もうちょっと簡潔に書いて欲しい

はてなブックマーク - ekkenのブックマーク / 2007年9月21日

というか、ちょっと前のエントリーのコメント欄でなされた『「無断リンク禁止」の「禁止」がローカル横断的に「禁止」ではないとは言い得ていない』ということのやり取りの長さをみてもらえれば、簡潔になりにくいのもご理解いただけるのでは。

もう少しで、「無知の知」やら「我思う、故に我在り」に辿り着きそうな予感がするのですが……。

はてなブックマーク - kana-kana_ceoのブックマーク / 2007年9月21日

自分が思うことが事実かどうかの話というよりは、自分が思うことを事実として他人に押し付けるだけの説明ができるかどうかという話なので、方向性としてはどちらかというとゲーデル不完全性定理のあたりなのではないかと。

詭弁で詭弁を説明するのは詭弁という論理は詭弁と言っているように思える/要するに論理のツボがよくわからん

はてなブックマーク - NOV1975のブックマーク / 2007年9月22日

ある行為をしたイスラム教の人をキリスト教の教義に基づいて悪人であると決め付けたとしても、その行為がイスラム教の教義では悪人の行為とは言い切れない場合には、キリスト教という価値観の殻の中から外に向けられた単なる悪口にしかなっていないのではないかという論理です。

突っ込みどころ満載の「知恵の輪」的な暇つぶし用ネタ文書。忙しい人はスルー推奨。

はてなブックマーク - AYBABTUのブックマーク / 2007年9月22日

議論のたたき台として書いているものなので、突っ込みどころを指摘する反論はいつでもどうぞ。