「悪い」の絶対的概念
世の中、「悪い」という概念に関係していそうな言葉はたくさんあります。例えば、当ブログにおいて以前のエントリーに書いた「嫌がらせ」などもその一つかもしれません。先日のエントリーではあらかじめ断ったうえで善悪の意味を含まないような具体的な形でローカルに定義した「嫌がらせ」という言葉を用いたのですが、想像以上に大きな反発があったように思います。しかしその反発も、もしも当ブログで用いた『「無断リンク行為」は当ブログでのローカル語義では「嫌がらせ」である』という事実がローカルでない場所(つまり当ブログ以外の場所)で一人歩きした場合に、「無断リンク行為」が「悪い」という意味を含む「嫌がらせ」であるかのように扱われるかもしれないという気持ち悪さを考えれば、納得もいくような気がします。
もしそうだとしたら、「無断リンク禁止宣言サイトへの無断リンク行為」について以前に書いたエントリーで「嫌がらせ」という言葉を便宜的に用いて説明したのは、ちょっと失敗であったのかもしれません。なので、そのエントリーの中で導かれた結論については、
という表現に改めたいと思います。
それにしても、なぜ「悪い」という言葉は多くの人を敏感にさせるのでしょう。もしかしたら、その背後には「悪い」という絶対的な概念が存在していて、その概念には
- 「悪い」⇒「人間として最低」⇒「叩いてよし」
というような関係が暗黙のうちに成立しているからなのではないでしょうか。つまり、自分が「悪い」ことをしたら他人から「叩かれ」ても自己責任というような状況が発生するという前提があるからこそ、具体的な個々の行為が「悪い」かどうかについて敏感になるのではないでしょうか。
ただし、その絶対的な意味での「悪い」という概念は誰も知ることは出来なくて、各個人は自分自身で「悪い」という言葉を勝手に特定の概念に対応付けたり、その勝手に対応付けている概念を絶対的な意味での「悪い」(したがって、「叩いてよし」)という概念に近づけようと日々の人生経験に基づいて微調整の試行錯誤を繰り返している過程にあるのかもしれません。
さて、各個人が「悪い」という言葉を勝手に対応付けている概念の扱いについてですが、もしもある具体的な行為が、ある人が勝手に対応付けている概念のもとで「悪い」とされる行為であったとしましょう。その人にとっては、その概念はその時点において暫定的に絶対的な意味での「悪い」という概念と同等のものとして扱われているのですから、自分自身がその「悪い」とされる行為をするというのは、他人から「叩かれ」ても自己責任という意味で、気が引けることになるというのは自然なことだと思います。
問題は、他人がその行為をした場合です。もしも、その行為をした人のことを「悪い」という意味を含む形で評価をしたとしたら、そのことは何を意味するのでしょう。
各個人が「悪い」という言葉を勝手に対応付けている概念が、絶対的な意味での「悪い」という概念にどのくらい近いものであるかについては、誰にも何も言えません。つまり、その人にとっては「悪い」とされる行為であったとしても、絶対的な意味で「悪い」と言える保証はないわけです。もしそうだとしたら、
- 他人のことをその人がなした行為をもって「悪い」という意味を含む形で評価すると、「相手が納得せざるを得ない根拠の説明なしに、その人のことを悪い人であると決め付けた」ことになる
のかもしれません。
そして、もしそれが本当ならば、「相手の人格を評価するときに、その人が納得せざるを得ない根拠の説明を軽視したくない人」にとっては、他人のことを悪く言うのはとても気が引ける行為ということになりそうな気がします。