責任の押し付けなのかな

無断リンク禁止を宣言しているサイトがなぜ検索サイトから無断でリンクをされても文句を言わないのかについて書いたエントリー

に対してブックマークコメントとしていただいた意見に

己の責任を取れていないのに他人には責任を押し付ける構図に見えてしまうのだが

はてなブックマーク - feather_angelのブックマーク / 2007年8月20日

というものがありました。しかし、そのエントリーには無断リンクをする側が何らかの責任を果たさなければならないというようなことは書いていませんし、構図としては、どのサイトがリンクの対象になるのかについて「俺判断」な基準しか明らかにしていないサイトが無断リンク禁止を宣言しているサイトに無断リンクする場合に

  • 無断でリンクをするのをあきらめる
  • 相手に嫌がられるのを承知のうえで無断でリンクをする

の二者から自由裁量で好きな一方を選ぶことができるということくらいしか思い浮かばなかったので、最初はなぜ責任を押し付ける構図に見えてしまうのか解りませんでした。

それでよく考えてみたのですが、無断リンクをされたくない人がネットにコンテンツを公開する場合に、

  • コンテンツを公開するのをあきらめる
  • 無断リンクをしたい人から無断リンクされる可能性があるのを承知のうえでコンテンツを公開する

の二者から自由裁量で好きな一方を選ぶことができるというよく似た構図があります。この構図を無断リンクをする側が無断リンクされたくない人に責任を押し付けている構図と考えている人から見たら、たしかに前述の構図も無断リンク禁止宣言をしているサイトが無断リンクをしたい人に責任を押し付けていることにはなりそうな気がします。そういうことなのでしょうか。

でも、もしそうならば、無断リンクされたくない人に責任を押し付けている人が、(無断リンクされたくない人に含まれる)無断リンク禁止宣言している人から責任を押し付けられたという構図になっているわけで、そもそも無断リンクをしたい人が相手に責任を押し付けているからこそ逆に相手からも押し付けられていると見るのが自然ではないでしょうか。つまり、もしも無断リンクをしたい人が責任を押し付けてこなかったならば、責任の押し付け返しをする必要もなかったという意味で、無断リンク禁止宣言をしている人は相手に責任を押し付けているのではなくて、押し付けさせられているというのが実際の状況なのかもしれません。

ブックマークコメントに対するレス

後半解り辛いですが(それは主題ゆえの仕様だと思いますが)概ねおっしゃる通り/加えて記事の主旨から外れますが「説明責任」という言葉を正しく使い解り易くする責任をくっぱさんが放棄しているようにも思えました

はてなブックマーク - feather_angelのブックマーク / 2007年8月22日

長めのレスになることをお許しください。feather_angelさんからの先のコメントにあった「責任を押し付ける構図」の意味がよく解らなかったので、無理やり構図を出して無理やり書いてみたのですが、本エントリーの内容について私自身は納得していません。というか、当初「責任を押し付ける」の解釈として「嫌がられないような配慮を強要する」の意味で捉えてしまったので、「そのエントリーには無断リンクをする側が何らかの責任を果たさなければならないというようなことは書いていませんし」という反論を書きましたが、別の意味を意図していたのなら申し訳ありません。もしもfeather_angelさんが意図する「責任を押し付ける」の意味が「嫌がられ役を無断リンクをする人に転嫁する」ならば、転嫁される前の元々の嫌がられ役がいないのではないかと反論させてもらいます。で、思ったのですが、もしかして「責任を押し付ける」の意味は「責任を生じさせる」でしょうか。これなら成立すると思います。つまり、無断リンク禁止を宣言することによってリンクをする側に

  • 無断でリンクをするのをあきらめることによって、嫌がられないように配慮する(責任を果たす)
  • 嫌がられるのを承知で無断リンクをすることによって、嫌がらせる(責任を放棄する)

のどちらかを選ばなければならない状況が生じたとなると、「責任を果たすことを強要した」り「責任を転嫁した」ことにはならないけれど、「責任を生じさせた」ことにはなるような気がします。

あとコメントの後半に対してですが、どなたかが「説明責任」という言葉の本当の意味と私が使っている意味との致命的な差異がどこにあるのかを明らかにしたにもかかわらず私がこの言葉の誤使用を改めていないのならば、私が「説明責任」という言葉を正しく使う責任を放棄しているといえるかもしれません。でも現状ではその致命的な差異は明らかにされたわけではないので、まだ責任を放棄していることにはなっていなような気がします。私がその責任を放棄しているのかどうかが定まるのは、少なくとも今ではなく、もう少し先のことになるのではないでしょうか。