コメントの正当さ

コメントに限らないのですけど、ネットにおいては互いに他人から嫌な内容の形で言及をされることがあり、時として衝突が生じることがあります。他人についての言及は、その人を選んでその人になすちょっかい行為です。したがって、言及行為には必然的に相手に対する責任という意味でのいかがわしさの問題がつきまとうことになります。しかし、他人についての言及行為がすべて無責任な行為であるはずもありません。言及するにふさわしい絶好の機会に、言及することを過剰に差し控える必要などないでしょう。この意味で、心ある人ならば、他人について言及する際に自分の行為が正当なのかどうかという点について常々頭の片隅で気になっているところではないでしょうか。

では、社会空間における人と人との関わり合い方において、どのような言及行為をすれば正当さを確保できるのでしょう。

自明な解の一つとして、言及した相手からの「なぜお前からそのような言及をされることを俺が受け入れなければならないのか筋の通る説明をせよ」との要求(以下、説明要求)を受け付けるチャネルを開き、しかし相手からそのような要求をされないような内容で言及をするという方針があるかと思います。しかし、説明要求をするかどうかを決めるのは自分ではなく相手なわけで、もしも説明要求をされて筋の通る返答をできない事態に陥ったならば、その言及行為は社会空間における人と人との関わり合いからはみ出した無責任な行為であったということになるでしょう。

このように考えると、言及相手の意に沿うような言及をしない限り、いかがわしさは払拭できないような気がするかもしれません。では、相手の意に沿わない可能性のある内容の言及をするのは不可能なのでしょうか。私はそうは思いません。というか、人として社会空間からはみ出すことと引き換えでなければ、相手の意に沿わない言及をするのが不可能というのは、直感的に無理があるように感じる人は多いのではないでしょうか。

そこでこの直感の背後にあるものをよく考えてみたのですが、「自身の主張を公開している限り他人から反論されることを受け入れざるを得ない」ということなのではないかと思うわけです。ある人が何らかの主張をしたとして、その主張の根拠は筋の通るものではなかったとします。この主張に反論をすることができないというのは変な話でしょう。主張はそれをした時点で、もはや個人のものではなく、検証されるために社会空間において提出された議題となるのではないでしょうか。そして、このことが、筋の通らない主張(たとえば思想がらみの印象操作を目的とした主張など)が社会空間において大腕を振って一人歩きすることを抑制するメカニズムになっているという側面がありそうな気がします。

つまり、相手の意に沿わない内容の言及をする際に、議論の形(相手の主張に反論する形)で言及するならば正当さは確保されるけれど、そうではない場合には、いかがわしさは排除されない(つまり、無責任行為である可能性が残る)ということではないでしょうか。

以下では、上記の観点からいくつかの事例について解釈をしてみたいと思います。

著作者の許諾を得ることなしに2次創作した作品を公開しているサイトに対して著作権法違反の可能性を指摘するコメント

サイトの運営者からしたら、「お前には関係ないじゃん?」(「なぜ著作者でもないお前からそのような指摘をされることを俺が受け入れなければならないのか説明せよ」)という気持ちにもなるかもしれません。しかし、「2次創作した作品をサイトの訪問者が望むままに閲覧させてもよい」との主張が成立すると運営者が暫定的に結論を出したからこそそのサイトは存在しているわけで、著作権法違反指摘をこの主張に対する反論と解釈するならば、コメントに正当さはあるということになります。

したがって、そのようなコメントをされたままサイトを存続させたくないのならば、サイトを削除するか、あるいは著作権法違反ではないことを証明する(たとえば、著作者の許可を得ていることを証明する)かの選択になるでしょう。

他人の言葉尻をとらえてセクシュアルな解釈が可能であることを指摘するコメント

言及相手がセクシャルな内容を意図していない場合には、いわゆる「茶化し」というタイプのちょっかい行為であり、「なぜ赤の他人であるお前から茶化されることを俺が受け入れなければならないのか筋の通る説明をせよ」に対して筋の通る返答をするのは難しいでしょう。そして、筋の通る返答ができない場合には、セクハラ行為であると指摘されても仕方がないような気がします。

筋の通る返答としては、言及先の内容が前後の文脈を含めてすべて一本筋の通る形でセクシャルな主張として解釈できることを説明するという手はあるかと思います。しかし、一部の言葉尻をとらえただけの場合には、前後の文脈を含めて筋の通るセクシャルな解釈を与えることはそれほど簡単なことではないでしょう。

普段から互いに茶化し合っている間柄でもない限り、他人に対する「茶化し」タイプのコメントは、相手からの説明要求に筋の通る返答が難しいという意味で、いかがわしい行為であると言えそうです。

炎上

不謹慎な発言に大量にコメントが殺到する炎上という現象があります。炎上の参加者からなされる個々のコメントについては、発言者による「この発言は控えなければならないほど不謹慎なものではない」との主張に対する反論の形になっているという意味で、正当なコメントであると見なせなくはないケースもあるでしょう。しかし、それでもなお、いかがわしさのようなものを感じないわけではないという人も少なくないのではないでしょうか。

そのいかがわしさの原因は、同じような内容の反論が何度も何度も繰り返しなされている点にあるのではないかという気がしています。議論という形をとるのならば、同じ内容の反論は冗長であり、議論の妨害でしかありません。不謹慎な発言に反論をするにしても、すでになされている反論とは別の新しい視点からの根拠に基づく反論をする必要があるわけです。つまり、炎上においてなされる正当なコメントはほんの一部であって、それ以外の冗長な反論コメントは、それだけを抜き出して見れば議論の形にのっとっているように見えたとしても、いかがわしいコメントでしかないとの解釈ができそうです。