ポジティブ判定は本当に必要とされているのか

でも、これが「すげー上手い」「これはすごい」判定だったら、公開の場でして欲しいだろうから、「判定を非公開の場でするな」ではなくて、「ネガティブな判定は非公開の場でしろ」なのでは。

ネットのメタファーなら「広場で演説している」を推奨したい - ARTIFACT@ハテナ系

それはもしかして藁人形ではないでしょうか。

「すげー上手い」「これはすごい」判定が欲しいからというより、突き詰めると、自分が「ここが自慢」と思っている部分について、他人がその部分に注目してくれたり、あるいは「その部分も自慢にしてもいいな」と思える部分の存在を他人が指摘してくれたらうれしいという感じではないでしょうか。つまり、たとえポジティブ判定であったとしても、本質的には必要ないのではないかと。

また、勝手ネガティブ判定を嫌悪する人であっても、「この部分は我ながら手抜きだよな」と思っている部分について、他人がそのことについて同じように気が付いたり、あるいは「気が付いてなかったけれど、ここももう少し手を入れる必要があったな」感じられる部分を他人から指摘されることにやぶさかではない人はいくらでもいるような気がします。

それとよく言われているようにはてなブックマークは、コメントが一覧できて、一斉に複数の人に言われているかのように見える。だから「ネガティブな判定」が多くの人の前でされているかのように見える点が問題なのだろう。

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というか、個人による勝手判定というのは時として「一方的な決め付け」みたいな感じになっていて、人前でそれをされると、ある意味「不当な差別」をされている感覚に陥ることがあるからではないでしょうか。

ブクマレス

うーん、反論の為の反論に見えてしまうなぁ。

はてなブックマーク - ekkenのブックマーク / 2008年4月10日

「どのような部分」から「そのように見えてしまうのか」を述べなければ、理由の説明なしに勝手判定を言い放っている中傷コメントとあまり変わらないのでは。

ということで、どの辺りのことを言っているのかはよく判らないけれど、反論の趣旨は、少なくとも「ポジティブ・ネガティブのどちらの判定も(本質的には)欲していない」を否定しない限り、「ポジティブな判定は欲するけれど、ネガティブな判定は欲していない」という結論を導くために「ポジティブな判定は欲している」という藁人形を設定している形になっているのではないかという指摘なわけです。はたして、「ポジティブ・ネガティブのどちらの判定も(本質的には)欲していない」が成立しないのは、何も説明が要らないくらいに自明なことなのでしょうか。

もちろん、判定コメントを嫌悪する人を決め付けのもとに社会不適格者として一蹴したいという目的なら、自明かどうかの吟味なんて必要ないのでしょう。そうではなくて、判定コメントに対する嫌悪が起こる現象の理解を目的としているならば、思い込みや決め付けに基づく論理の芽を一つひとつ潰していくことには意味があるのではないでしょうか。もしも前者の目的ならば、反論のための反論に見えてしまうかもしれませんけど、後者の目的ならば、反論のための反論とは言えないような気もします。

良いも悪いもなく、ほっといてくれという人がゐるかもしれないという話。

はてなブックマーク - kana-kana_ceoのブックマーク / 2008年4月11日

「ほっといてくれ」という表現がミスリーディングかどうかは微妙なところかも知れないけど、イメージで言うと、会議で意見を述べて、「この意見に注目すべき点があるならばどうぞ言ってくれ。でも、別に代表に立候補したというわけではないのだから、俺に対する信任投票を勝手に始めるのはやめてくれ」という意味なら、その通り。

「個人による勝手判定というのは時として「一方的な決め付け」みたいな感じで(中略)「不当な差別」をされている感覚に陥ることがあるからではないでしょうか」この部分はお互い様なのにねぇ?(←言及元の話)

はてなブックマーク - feather_angelのブックマーク / 2008年4月11日

勝手判定に勝手判定で返すというのは、最初に勝手判定をした人の行為をお互い様という形で相対的に正当化させることになるわけで、確かに自分の思うままに勝手判定をしたいという人にとってはその方法が理に適っているのかもしれません。

そういう人が残りやすいからそう見えるだけじゃね?観測範囲が狭いデータからくる感覚だと思う→やぶさかではない人はいくらでもいるような気がします。

はてなブックマーク - otsuneのブックマーク / 2008年4月11日

とりあえず勝手判定に勝手判定で返すというノイズがなくなれば、他人からの理由を伴った指摘に耐えられないくせに発言をしまくっている人がどの程度存在しているのかが炙り出されるのではないでしょうか。そして、そのような人たちが自然に淘汰されて(あるいは理由を伴った指摘に耐えられるような形での発言をするように進化して)いった後に、残った人がネットが成立しなくなるほどに少数であるという悲観的感覚を持たざるを得ないほどに範囲の広いデータを私はまだ観測していないのかもしれません。