責任とは

ウェブで様々な文章を読んでいると、他人の責任について述べられたものをよく目にすることがあります。この「責任」という言葉は、辞書などを引くと「しなければならないこと」みたいな概念と関連付けられていることもあるようです。しかし、「しなければならないこと」であるとなると、「それをしなければならないと主張しているのはいったい誰なのか」(つまり「あるローカルの人がそのローカルの外にいる人に押し付けているだけのものなのではないのか」)という問題が生じることになり、その点がクリアにならない限りは、単なる言いっ放し発言と変わらないとも言えそうな気がします。また、何をしなければならないのかについても不明確です。

そこで考えてみたのですけど、「責任」は何をすることなのかというと、実は「しなければならない」かどうかというよりも、単に「納得させること」ということなのではないでしょうか。

例えば、「相手に対して責任を果たす」とは、説明をするなり謝罪をするなりお金を払うなり切腹をするなり様々な形態はあると思いますけど、それらの行為によって「相手の納得を得る」ということなのではないかと思うわけです。また、「無責任な態度」とは、「『私を納得させろ』と要求している相手を納得させることなく、そのままにしておくこと」ということなのではないかと。

では、相手から「私を納得させろ」と要求される(つまり、責任を追及される)のはどのような場合でしょう。様々な場合があるとは思いますが、一つの分類方法として、

  • 相手を選んでその行為をした結果なされた「私を納得させろ」という要求

であるかどうかという観点があろうかと思います。つまり、「その人にならその行為をしても構わないと判断した」かどうかという意味での「人為」か「自然(あるいは環境)」かの違いです。後者であるかどうかは、「その行為を選り好みなくすべての人に対してしている、あるいは、その行為をその人にしない自由が制限されていた」かどうかによって判別できるかと思います。

そして、前者の場合には「なぜ『私にならその行為をしても構わない』と言い得るのかという点について私を納得させろ」という要求なのかもしれません。しかし、後者の場合には、例えば「なぜ『その行為をすべての人にしても構わない』と言い得るのかという点について私を納得させろ」という要求であるならば、「あなたは『すべての人』から全権を委任された代表者ではない」という意味で、責任を追求する側の当事者性に不整合が存在します。一方、「なぜ『その行為を私にしない自由が制限されていたのか』という点について私を納得させろ」という要求に対しては、「その行為をあなたにしない自由を制限したのは私ではない」という意味で、責任を追及される側の当事者性に不整合が存在します。この意味で、「人為」でない場合の責任追及にはちょっと無理があるような気がしないでもありません。

最後に、「自己責任」についてです。

これが生じるケースの一つは、相手の行為が「人為」ではなく「自然(環境)」によるものである場合です。この状況のもとでは、上に述べたように責任追及をする相手がいないのだから、納得できない自分を納得させる役目を負うのは自分ということにならざるを得ないでしょう。そしてもう一つのケースは、相手の行為がその人の「人為」によるものであって、その人に責任追及をすることに整合性はあるものの、その人が責任を果たすことなく無責任な態度をとった場合です。

例えば、「無断リンクをされて嫌な思いをしたとしても、自己責任である(その嫌な思いを受け入れることを自分に納得させるのは自分自身である)」という主張がなされた場合、その無断リンクが検索サイトのような「自然」によるものであるならば、前者のケースと言えるでしょう。一方、サイト運営者が自身の判断でそのサイトを選択して無断リンクをしたのならば、後者のケースと言えるのかもしれません。そして、後者の場合の自己責任は、無断リンクをした人が無責任な態度をとったという事実のもとに初めて無断リンクをされた人に生じるという意味で、無断リンクをした人によって無断リンクをされた人に押し付けられた責任であるとも言えそうです。