受動的な主張

の一連のエントリーの後に書かれた

に関連して思ったのですけれど、世の中の現状を批判し、このような世の中であるべきだというタイプの主張において、受動的だと感じる主張をよく目にすることがあります。

上に挙げたエントリーで

国家に於いて国民は主権者である筈なのに、行政は国民に仕えようとせずに主権者たる国民を殺しているのです。そこに問題があるわけです。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20070826/1188121808

とあるのですが、行政が変われば現状よりましになるというのは、言われてみればそうなのかもしれません。でも、この手の「他人が変われば」というタイプの主張は、他人が変わってくれなければどうにもならないわけです。これって能動的な主張なのでしょうか。

能動的に動けるのは自分自身のみです。ならば、自分が変わることによって、他人に変わらざるを得ないように仕向けるしかないのではないでしょうか。「あいつが変わらないから俺は迷惑を被っている」という主張は私には能動的とは思えません。相手が自発的に変わってくれるのを待っているだけでは、他力本願という意味で受動的だと感じます。

行政が国民に仕えようとせざるを得ない状況にするにはどうしたらいいでしょう。ひとつの方法として、主権者たる国民全員が「行政は今のままではダメだ。変わらなければならない」という考えをもてばいいのかもしれません。しかし、この解決法もまだ受動的です。国民全員がそのような考えをもつように変わればという部分が含まれているからです。では、国民全員が変わらざるを得ないような状況にするにはどうしたらいいのでしょう。そのあたりの説明をすることなく「行政が変わらないから、それが問題だ」という批判だけしていたとしても、それは受動的な印象を免れないような気がします。