マンガ規制は目に余るご都合主義に対する必然

 東京都「性描写漫画販売規制」が成立した。

 私は、「おめでとう」と、申し上げたい。

 

 多くの人が、反対し、憤っていることを、私も知っている。

 だが、「強姦を礼賛」する作品が、子供に「普通」に売られる状態は「善」なのか?

東京都「性描写漫画販売規制」条例改正案、成立おめでとう。 - Adan Kadan Hatena

この手の設問については、YES/NOで答えることに議論としての価値はあまりなく、『子供に「普通」に売られる状態は「善」』とならないような『「強姦を礼賛」する作品』とはどのような作品であるかについて探求することにこそ価値があると思うわけですが、、

これを検討する際に、逆に『「礼讃」することなしに「強姦」を描く』とはどういうことなのかを考えてみると、『その行為が起こらざるを得ない状況的必然の説明とともに「強姦」を描写する』ということなのではないかと。つまり、『「強姦を礼賛」する』とは『ご都合主義的な状況設定のもとで行われる「強姦」行為を描写する』ことに他ならないのではないかと思うわけです。

たとえば、現実社会において、ある人物がご都合主義的な思想に取りつかれて通り魔的に強姦行為(あるいは刃傷行為でも可)に及んだとしましょう。その人物の言動があまりにご都合主義的であることをもって、我々は事件の全容を把握できたと納得するでしょうか。少なからぬ人は、なぜその人物がご都合主義的な思想に取りつかれたのかについて気になるのではないでしょうか。週刊誌やテレビのワイドショーなんかも、その需要に応えるために、その人物の生い立ちやら幼少期の家庭環境みたいなものを取り上げてみたり。つまり、ご都合主義とは現実社会におけるタブーであって、加えて、「タブーを黙認」することもタブーである(タブーにおいて「黙認」は「礼賛」を意味することになる)から、「必然なきご都合主義」の存在は受け入れがたいという背景があるわけです。つまり、必然なきご都合主義の持ち主は人にあらず、人であるからにはご都合主義的な思想は何らかの必然があってこそ生じ得ると。

しかし、マンガなどの創作物において人物や状況設定をするのは創作者自身です。つまり、ご都合主義的な思想に取りつかれた人物を、それが生じる必然の説明なしに作品中に導入することは、「必然なきご都合主義」の存在を認めていることになり、この態度のもとに創作された作品が野放しに販売されている状況は、「黙認」によって社会そのものが「ご都合主義を礼賛」していることを意味することになります。

もちろん、大人は知っています。作者や出版社が必ずしも好き好んで「ご都合主義礼賛」というタブーを犯しているのではなく、生業のために仕方なくやっているという解釈が存在することを。しかし、「ご都合主義」なエロ作品を目にする可能性がある子供に、いったい誰がそのような解釈の存在を説くのでしょう。それとも、子供が自らその解釈を思いつくのでしょうか。そうではなく、社会そのものが「ご都合主義を黙認(礼賛)」していると解釈してしまう、つまり、タブーをタブーと認識できない子供も現れてくると考えるのが自然なのではないでしょうか。

もしそうだとしたら、状況の必然を説明しないご都合主義な行為を描いた作品が目に余る状況が生じるたびに、お上に規制してもらおうという動きが出てくるのは必然のように思えます。

無断リンク禁止の解釈

我々が街を歩くとき、もしも誰かから勝手に尾行され、どこを歩き何をしたかについて誰でも見れるような場所に貼り出されたとしても、そのことを受け入れられるでしょうか。あるいは、携帯電話で話しながら自動車を運転している誰かを見かけたときに、その姿を写真にとり、顔だけは消しを入れたとしても、ナンバープレートなどは映っている状態で誰でも見れる場所に貼り出すことに問題はないのでしょうか。

街を歩けば他人から見られてしまう、車を運転すれば他人から見られてしまう、自身のウェブページに文章を書けば他人から見られてしまう。

しかし、思うに、我々は案外うまくやりくりできる方法を知っているのではないでしょうか。つまり、他人のその手の情報を目にした場合、自身の手の届く範囲で管理するという責任を相手個人に対して負うという形でのやりくりです。(もっといえば、「人」と「ケダモノ」の究極の違いは、そのよな「責任」を負う者同士であるかどうかにあるようにも思えます。)

たとえば、街を歩いていてたまたまクラスメートが意外な相手とデートをしているのを目撃したとします。そのことをクラス全員におおっぴらに広めることをそのクラスメートが構わないと思っているかどうか判らない場合、信頼できる何人かには教えたとしても、それ以上には広めたりはしないでしょう。ここで、信頼できるとは、教えられた情報を自身の判断で勝手に更に広めたりはしないということを言います。

ならば、そのクラスメートがクラスのみんなに秘密裏にその意外な相手と街でデートし続けることは、そのクラスメートにとっての権利なのでしょうか。たとえそのデートの様子があまりに目に余ったとしても、「目に余るならば見なければいい。見るのが嫌ならそいつが街に出てこなければ俺たちのデートの様子も目にすることはないだろう」というクラスメートの主張を受け入れなければならないのでしょうか。

そうではありません。この件に関してそのクラスメート個人に対して負っている責任は、本人に対する通告なしに相手情報を自身の管理外に解き放ったときに生じます。したがって、クラスのみんなに伝える旨をそのクラスメートに通告すれば、もはや責任は生じません。通告を受けたそのクラスメートは、街でデートをつづけることを諦めることでクラスのみんなに知られるのを免れるか、クラスのみんなに知られるのを受け入れたうえで街でデートをつづけるかの選択をせざるを得ないでしょう。つまり、「嫌なら見るな」は成立しないわけです。

無断リンク禁止宣言の扱いも同じでしょう。リンクを張る前に通告をすることによって、リンク先にある内容を消去するか、リンクされることを受け入れるかの選択をさせることで、リンク先が削除されない場合にリンクをすることに関して相手に対する責任は生じさせずに済むことになります。しかし、この手続きなしにリンクをすることは、自身が「ケダモノ」であることを宣言していることに他ならないでしょう。

あと、自分の講義の試験についてのカンニング告白をネットで目にした場合も、やはり事前通告によって告白を消去するか、それともネット上で直接言及することを受け入れるかの選択をさせるという手続きなしに、直接言及してしまうということは、相手を「人」として扱わない「ケダモノ」としての振る舞いに他ならないような気がします。

ブコメレス

ネットの出来事を非ネットの何かに喩えるのは無理があるような

はてなブックマーク - ekkenのブックマーク / 2010年9月12日

ネットなのだから相手を「(非ネットにおけるいわゆる)人」として扱わなくてもよいということの方がよほど無理があるような

@ekken http://htn.to/FwoWJR 続きが書いてあったけど、結局「無断リンク=悪」という結論を導く為の前提でしか書かれていなかった。

http://twitter.com/ekken/status/25691797108

いったい何をもって「無断リンク=悪」を主張しようとしていると解釈しているのか判らないのですけど。本記事では、無断リンクは「他人の情報を目にした場合、自身の手の届く範囲で管理するという責任を相手個人に対して負う」という態度から逸脱した行為であるという点を述べているだけであって、「悪」とのからみについては何も述べていないわけですが?

トラバレス

くっぱさんの例示の行為は、恐らくは何らかの犯罪行為として認定されるものだと思います。

「無断リンク=悪」という結論ありきの喩え話イクナイ:ekken

これってはたして個人対個人で認定されているものなのでしょうか。たとえ社会が認定していなかったとしても、「ケダモノ」は生じないと言えるでしょうか。

自分の行動を自分でネットに掲載したとして、それを面白がった人が「面白い日記見つけたよ! ⇒こちら」とリンクしたり、URLを書き込んだりする事は、被リンク側の感情問題を除くと特に問題があるわけではないです。

「無断リンク=悪」という結論ありきの喩え話イクナイ:ekken

自分の行為を自分で街で実行したとして、それを面白がった人が「面白い人見つけたよ! ⇒こちら」とその行為が見れる場所や時間を誰でも見れる場所に貼り出したりすることは事は、貼り出された側の感情問題を除くと特に問題があるわけではないです、、というようなことを言っていると思うけれど、そのようなことをするのはやはり「ケダモノ」だと思います。面白がるにも個人の管理の届く範囲で面白がるのが「人」というものではないでしょうか。

「街を歩いているときの行動について、自分自身で作文し、どこを歩き何をしたかについて、誰でも見れるような公共の場所に貼り出した→それを読んだ人が“あそこにこんな張り紙がしてあった”と話題にした」 これは是か非か? ということになるでしょう。

「無断リンク=悪」という結論ありきの喩え話イクナイ:ekken

自身の管理の届く範囲で話題にするのは問題ないのではないでしょうか。張り紙はいつでもはがせるのだから、通告なしに自身の管理の範囲を超えて張り紙のことを話題として広めるのはいかがなものかと思います。

他人に知られたら困る事・他人に言及してほしくない事はウェブ上に公開しない/知られても構わない相手にしか読ませない(閲覧許可のない人には読めないサービスを利用する)で解決します。

「無断リンク=悪」という結論ありきの喩え話イクナイ:ekken

街でデートしていることを広められたくなければ街でデートしなければ解決するし、自転車でコケたことを広められたくなければ街で自転車に乗らなければ解決します。でも、そんな解決法をとらなくても、普通は目撃しても自分の管理外に勝手には広めないという形でお互いにやりくりしているのではないでしょうか。

誰にでも読める場所に、自らが発表しているのに「多くに人に読まれたら困る」などと言い出すのはケダモノではないですが、バカモノだろうなぁ。

「無断リンク=悪」という結論ありきの喩え話イクナイ:ekken

誰にでも目撃できる街で自らデートしているのに「クラスのみんなに知られたら困る」などと言い出すのは、それほどバカモノではないように思いますけど、どうなんでしょう。「ケダモノ」な価値観をもつ人から見たら「喰われたくなければ穴に引っ込んで表に出てくるな」ということなのでしょうか。

コメント欄閉鎖の意味するところ

経緯をまとめますと、『古本屋でのバイト時に教えてもらった便利な本・雑誌の縛り方』というものに対して、それを知っていたという人がコメントで「そんなの知っている」というコメントで溢れたというもの。口調などは見ての通り。これは正直「どうすればいいんだっての」と思いました。

ブログのコメント欄を無くすことは臆病者の選択肢ではなくなった - 空気を読まない中杜カズサ

ということで、ブログのコメント欄を閉鎖したりしても臆病というわけでないという主張がなされていのですが、「そんなの知っている」というコメントは元記事である古本屋でのバイト時に教えてもらった便利な本・雑誌の縛り方 - 空気を読まない中杜カズサでなされている主張が引き起こしているという意味で、本質をついているわけではないような気がします。

この元記事ではタイトルにある通り本屋さんでバイトをしているときに教えてもらった本の結わえ方が紹介されているのですが、問題なのは、そこでなされている主張が文脈的に「これが本の結わえ方の決定版である」という形になっているという点です。「まだ知らない人に教えてあげる」系の記事というのはどうしても同様の上から目線な形の主張をすることになってしまうのですが、「これが決定版である」と主張されれば、「その暫定版には俺も到達できていたけど(、さらなる改良版を模索している俺のような人のことを無駄なことをしている馬鹿か何かかと主張してんの?なんで決定版だと言い切れんの?お前、自分のこと神様か何かかと思ってんじゃね)?」という文脈の反論が出てくるのはごく自然のことなのではないでしょうか。

このエントリーを肯定評価していただいた方がいて、その方達が上のようなコメントを見た場合、少なくともいい気分はしないだろう

ブログのコメント欄を無くすことは臆病者の選択肢ではなくなった - 空気を読まない中杜カズサ

しかし、「これが決定版である」と主張する記事における反論の機会を制限する方向での措置は、言いっ放し宣言に他ならないような気がします。

というか、そもそも「これが決定版である」という主張さえしなければ、「そんなの知っている」なんてコメントは来なかったのではないでしょうか。専門家から教えてもらって自身の目から鱗が落ちたからといっても必ずしも決定版であるというわけではないわけで、更なる改良の余地を自ら模索するなりして暫定版であることを受け入れる可能性を残したうえで決定版かどうかを問う形にすれば、コメント欄を閉鎖するどころか有効に利用できるような気がします。

ある情報を賛同者が右から左へと即宣伝では、多数派形成工作行為となんら変わらないわけで、その辺りが反発を引き起こしやすい原因なのかもしれません。文脈的に「まだ知らない人に教えてあげる」ではなく「もっと知っている人から教えてほしい」という形にしておけば、話は違っていたのではないでしょうか。

ちなみに、私が本や古新聞を結わえる場合、床にビニールひもをαや∝みたいな形において、その上に本や古新聞をひもが交差している位置が底面の中心になるようにおいて、輪の部分を袈裟がけに上面に持ってきて、ひもの一端を輪の下に通してもう一端と結ぶという方法でやっています。

議論と多数派形成工作

インターネット時代の初期には、「開かれた討議」がサイバースペースで実現して市民社会が良くなる、という「楽観論」も大手を振っていたが、それが鳴りを潜めたのは言うまでもない。「開かれた討議空間」のひとつである2ちゃんねるを見よ。


そこには馬鹿馬鹿しくて相手にしない者、愛想が尽きた者、うんざりして脱落した者、の存在を想定しない「開かれた議論」の自己満足と独善が存在する。「2ちゃんねるは批判に開かれています。だから批判がないのは正しいことです」として異論を集中放火して脱落させ、ブログを炎上させて閉鎖に追い込み、こうして愚にもつかないコンセンサスの全体主義は達成される。この最悪の全体主義を回避するために、「学者の言ってることだから正しいということにしておく」という空虚な権威主義がマシになる。

http://d.hatena.ne.jp/uedaryo/20100125/1264420312

実は「開かれた議論」の場であるというのは単なる幻想であって、「開かれた多数派形成工作」の場となっているというのが現実なのではないでしょうか。たとえば、ブログの炎上などを「開かれた議論」の観点から眺めてみると、複数の人がよってたかって同じ主張(ブログ主の主張に対する同じ根拠に基づく反論)を重複して述べる行為というのは議論妨害でしかありません。一方、「開かれた多数派形成工作」の観点で眺めれば、どれだけ多くの賛同者がいるかをアピールすることは非常に重要な戦略になることでしょう。しかし、そのような戦略は「開かれた議論」と相容れない関係にあるわけです。

議論が何たるかを知っている人にとっては、多数派形成工作において用いられる議論とは相容れない手法に対して議論妨害であることを容易に主張できるでしょう。それをすることなく多数派形成工作の手法にさらされても手をこまねいているケースが見受けられるのは、議論が何たるかをよく理解していない人がいるからなのかもしれません。

ブコメレス

大筋で同意なんだけど、「議論」に対する考え方がいろいろあるからなぁ。相手に反論の余地を与えないことを議論の目的に設定する人とか。

はてなブックマーク - ekkenのブックマーク / 2010年2月17日

もしも反論の余地がないくらいに筋の通る論理が提出されたのならば、それは多くの人にとっての直感にも一致するようなものになっているのではないでしょうか。逆にいえば、直感に反すると感じる人は、直感に反する理由を深く探索することで、筋の通る反論を見出せるかもしれません。それを提出することで議論は一歩前に進むわけです。

議論にはいつ誰が参加してもいいわけで、たとえある一人が「相手に反論の余地を与えない」という思惑を達成することを目的に議論に参加したとしても、余程の筋の通る論理を構築しない限り、どうにかなるものではないような気がします。

直観に反する真理は多々あるのではないか。

はてなブックマーク - morimori_68のブックマーク / 2010年2月28日

直感と真理に乖離がない場合、直感と異なる主張に対しては筋の通る反論を見出せる可能性があり、一方、直感と真理に乖離がある場合には、真理を述べている主張に対する筋の通る反論を模索する過程において真理を深く理解することになり直感が適切に修正されるという意味で、議論において自身の直感と異なる主張が他者から提出された場合、筋の通る反論を模索することに無駄はないわけです。

「他人との関わり方」論

「いじめられる子供の共通点」を調べる研究 | スラド Linuxでのコメントを見て思ったのですけど、いじめ問題というのは人と人との関わり方に何か歪があるからこそ生じているのではないでしょうか。あるいは、いじめ問題だけでなく、たとえばネガコメ問題なども人と人との関わり方に歪があるからこそ生じているような気もします。ならば、その手の問題の解決法を議論するにしても、そもそも人と人との他人としての関わり方とは何かについて論理的に概念を構築しなければ何も始まらないのではないでしょうか。

そこで、本記事では、他人との関わり方についての概念の論理構造を構築してみたいと思います。

議論とは

主張に対する反論を提出する過程。反論がなされないままの状態にある主張が暫定的な結論となる。議論に終結はなく、反論が提出された瞬間に暫定的な結論は無効となる。議論にはいつ誰が参加してもよい。

(「揚げ足取り」行為が回避されるメカニズム)

提出された主張に字面として複数の解釈が可能である場合、文脈的に矛盾が生じない解釈をもってその主張の解釈とする。したがって、反論のやりとりの流れは以下のようになる。

  • ある解釈のもとで主張に矛盾が生じることを指摘する。このことは、その他のどの解釈のもとでも矛盾が生じると主張していることを意味する。したがって、一度の反論においてすべての解釈それぞれに対して個別に矛盾が生じることを説明する必要はない。
  • 別解釈を提出し、その解釈のもとで主張のどこに矛盾が生じるのかについての説明を求める。提出する別解釈は、それまでに矛盾を指摘された解釈を一切含まないものであれば、字面として複数の解釈が可能であるものであってもかまわない。

上記のやりとりの繰り返しにより、可能性の残る解釈は段階的に絞り込まれることになる。また、完全に一つの解釈に絞り込まれる前のある段階において、矛盾の生じない解釈が可能であるとの暫定的合意(ただし、ある解釈のもとで矛盾が生じることの指摘が誰かによってなされるまでの間)に達したり、逆に、どの解釈でも矛盾が生じるため主張は無効であるとの暫定的合意(ただし、誰かによって別解釈が提出されるまでの間)に達することも可能である。

(「悪魔の証明」要求が回避されるメカニズム)

状況に関するあるシナリオを議論の前提としておくことが提案された場合に、なぜそのシナリオと言い切れるのかと尋ねるだけでは反論とはならず、状況に無矛盾な別シナリオが提出されるまでの間は、そのシナリオが議論における暫定的な前提として扱われる。別シナリオはいつ誰が提出してもよい。

(「極端なたとえ」の用法)

ある対象に対してある状況が成立するとの主張がなされた場合、その主張を無効であると扱うためには、根拠が存在しないとの暫定的合意を確立する必要がある。これをするためには、その状況が成立しない別の対象の(極端な)具体例を一つ挙げることで、その状況が成立する・しないを分離する明確な境界が存在しないことを主張すればよい。この反論に対する返答として提出された境界の内側に、なおその状況が成立しない対象が存在する場合には、そのような(極端な)具体例を一つ挙げる。以上のやりとりを繰り返すことで、どちらかの主張に対する暫定的合意に達することが可能となる。

「○○は□□だ」「えっ、もしかして△△は□□だ、みたいなことを言ってるの?」「いや、そういうことを言っているのではなくて、、○○は△△と違って××だからこそ□□だと言っているのだが?」「つまり、◇◇も××だから□□だってこと?ちょっと驚きなんだけど」「いや××というのは正確ではなくて、実は追加の条件として、、」

上記の例において、求められているのは××やそれへの追加条件の提出であることに注意。△△や◇◇がいかにたとえとして相応しくないかを説くのは筋違いであり、一種の議論妨害となる。

責任とは

相手を選んでなした行為について相手から「なぜお前からそれをされることを俺が受け入れなければならないのか説明せよ」との要求(以下、説明要求)がなされたときに、筋の通る説明をもって応えること。応えることができない場合、相手に対して「ちょっかい行為」をなしたという事実が生じる。

選んで行為をなした相手以外から説明要求をされた場合に、これに応えなければならない理由は明白ではない。したがって、そのような説明要求をしてきた相手に逆に「なぜお前から説明要求されることを俺が受け入れなければならないのか」と説明要求をすることには筋が通る。

謝罪とは、説明要求に対する「この行為をした相手になぜそれを私からされることを受け入れなければならないのか筋の通る説明をすることができないことを今はじめて知りました(したがって、一度知ったからには、以降の人生においては、そのような行為を一切いたしません)」という筋の通る説明の一つの形態。一度謝罪した行為を再び繰り返すことは、過去になしたその行為に対する筋の通る説明を別途謝罪以外の形で提出する必要が生じることを意味する。

社会空間とは(他人との関わり方)

他人に責任を負うメンバーによって構成される空間。他人に「ちょっかい行為」をすることは自身が社会空間からはみ出すことを意味する。社会空間からはみ出すことなく「ちょっかい行為」をすることが許されるのは、説明要求を引っ込めてもらえる程度に義理を感じてもらえているような相手のみである。

社会空間における特定の集団に対して行為をなした場合には、責任を負う相手は、その集団の個々のメンバーではなく、集団全体の総意である。つまり、個々のメンバーが行為者に対して直接説明要求をするのは筋違いであり、相手に対する「ちょっかい行為」となる可能性がある。しかし、行為者が「その集団に対してその行為をしてもかまわない」と主張していると解釈し、この主張に対して議論の流儀にのっとって反論を述べたとしても「ちょっかい行為」とはならない。

同様に、自身が直接選ばれて行為をなされたわけでもないのに他人個人に意見したり、その人のあり方を自身の価値観に基づいて評価し公言することは「ちょっかい行為」となる可能性がある。しかし、相手が「そのようにあってもかまわない」と主張していると解釈し、この主張に対して議論の流儀にのっとって反論を述べたとしても「ちょっかい行為」とはならない。


さて、以上の概念に基づいて「いじめ問題」を見てみると、

  • いじめる側はいじめられる側からの「なぜ俺がお前からいじめられることを受け入れなければならないのか」との説明要求に応えることができるのか

という点から、いじめる側は他人との関わり方から逸脱しており、社会空間からはみ出してしまっていると言えそうです。

また、「ネガコメ問題」についても、議論の流儀にのっとらないコメントなどは

  • 他人を自身の価値観に基づいて評価し公言する側がそれをされる側からの「なぜ俺がお前から勝手に評価され公言されることを受け入れなければならないのか」との説明要求に応えることができるのか

という点で「いじめ問題」と似たような状況が生じているような気がします。

ブコメレス

ここでいう「ネガコメ」が定義されていないのがアレ。

はてなブックマーク - ekkenのブックマーク / 2010年2月10日

ネガコメ」と称されるコメントをもって「ネガコメ」と定義していると解釈しても記事の文脈に矛盾は生じないと思いますけど?

つまり、本記事は、その主張の一部として、「ネガコメ」と称されるコメントがある特徴の有無によって分類できることについて述べているわけです。たとえば、

1. 記事に書かれた誤字や事実誤認の指摘

2. 曖昧に書かれたものに対する事実の確認

3. 反対意見の表明

4. 嫌悪感の意思表示

こうしたものを激しく嫌悪して、荒らし扱いする人をたまに見かけるのだけど……

小倉弁護士の「匿名性を濫用した私的制裁」について:ekken

に挙げられているようなコメントを「ネガコメ」と称する人もいるかもしれませんけど、

1.については、字の使い方を誤ったからこそ、あるいは、事実を誤認したからこそ、その主張に述べられている結論が成立するケースにおいて、その結論に反論をするという文脈ならば、誤字、事実誤認の指摘には筋が通ると思います。しかし、読み手が誤字や事実誤認を適宜修正して読んだとしても主張における結論に変化が生じないケースにおいては、議論に不必要な指摘であるという意味で、議論妨害という「ちょっかい行為」になると思います。

つまり、誤字や事実誤認の指摘であっても、それがどのような文脈のもとでなされるかによって話が変わってくるというのが本記事における主張です。

2.についても、表現された曖昧さの範囲で文脈的に矛盾が生じない解釈が可能であれば、それを前提に相手の主張を受け取ればいいだけのことであって、頼まれてもいないのに他人の表現を校正してあげるのは「ちょっかい行為」になると思います。ただし、曖昧さの範囲におけるどの解釈のもとでも結論を導く論理のどこかに矛盾が生じる場合に、「○○の部分はいろいろな解釈が可能だと思うのですけど、もしかして△△の意味でおっしゃっているのでしょうか。しかし、もしそうならば××という意味で矛盾が生じると思うのですけど?」といった感じで××を具体的に述べたうえで反論するのは筋が通ると思います。

1.と2.を無条件に許してしまうと、相手が提出した主張の「表現」についての不備をこと細かに指摘することを繰り返すことで、いくらでも議論妨害が可能となってしまうという点が、「揚げ足取り」行為と似ているわけです。

3.については、「反論の提出」ならば筋は通ると思いますが、「俺は反対票を投じるよ宣言」ならば、単なる議論妨害です。議論においては、誰が「俺は反対票を投じるよ宣言」をしようとも「反論の提出」がなされるまでの間は、暫定的な結論は無効とはなりません。

ある時刻になったら投票によって社会空間における意思決定をするということが決まっっているのならば、「俺は反対票を投じるよ宣言」は印象操作的な意味で有効かもしれませんが、いつ投票によって意思決定されるのかが決まっていない段階においては、議論を妨害する行為でしかありません。

4.についても同様です。「好き・嫌い」の「嫌い」に一票を投じることの宣言なわけですけど、ある個人が他人から勝手に投票の対象として扱われ、どちらに投票するのかについて公然と印象操作活動をされるのは「ちょっかい行為」以外のなにものでもないのではないでしょうか。公然と宣言するのではなく、心の中で「もし投票することになったら「嫌い」に投票してやる」と固く誓うにとどめるか、せいぜい相手本人のみが閲覧可能なメールなどでその気持ちを伝える程度にしておく必要があるように思います。

現代文の授業は何のためにあるのか

文盲の感覚w - 消毒しましょ!を読んで思ったのですけど、もしも現代文の授業というのが「与えられた文章に対して(書き間違いや語句の多様な使用法の存在を考慮の上で)、書き手を馬鹿や文盲であると結論付けなくても済むような文脈的に筋の通る解釈を見つけ出す」ための技術や忍耐力を習得する機会であるならば、勉強しておくに越したことはないような気がしました。

ブコメレス

もっともなんだけどくっぱさんの主張は「文脈的に筋の通る解釈」ではないからなぁ。

はてなブックマーク - ekkenのブックマーク / 2009年8月23日

文脈的にどの部分に破たんがあるのかを説明することなしにid:ekken氏みたいに「文脈的に筋の通る解釈になっていない」を主張したとしても、口先だけの「ちょっかい」にしかならないわけですがw

「書き間違いを考慮」する現代文の授業なんてあるの?

http://b.hatena.ne.jp/makeshift/20090903#bookmark-15492750

そのような解釈はいったいどこから出てくるのでしょう?

「解釈を見つけ出す」方法を提示していない時点で「ちょっかい」はお互い様。

http://b.hatena.ne.jp/makeshift/20090903#bookmark-15492750

文脈的に言って、なぜ本記事でその方法を提示しなければならないのか、はなはだ意味不明。

スルーしようと思ったけどあまりの不毛ぶりにイライラしたのでコメントした。

http://b.hatena.ne.jp/makeshift/20090903#bookmark-15492750

イライラするのは構わないのですけど、文脈的に筋の通るコメントをお願いしたいものです。>id:makeshift

他人に融通要求をするための資格

「特別な事情」は自分だけにあるとは限らない:ekkenは、まさにその通りだと思います。

そもそも、他人への融通要求(が拒絶されたときに相手を批判する自由)は相手に対する責任とセットでなければバランスが取れないような気がします。

昔と違い、現在は他人に融通をお願いしても断られることが多くなったと感じる人は多いかもしれません。これは融通をお願いされる側がケチになったからなのでしょうか。私はそうは思いません。近所の悪ガキを叱るカミナリ親父がいなくなったのとも同根なのですけど、融通をお願いする側がケチになった(あるいは、ケチにならざるを得なくなった)からではないかと思うわけです。

融通をお願いするとは、普段とは異なるイレギュラーな状況におかれることの受け入れを相手にお願いするということです。当然、相手には何がしかの負担が生じます。しかし、その負担は融通される側の事情ではなく、融通する側の事情で決まります。したがって、最悪の場合にどの程度の負担であるかは、融通される側としては青天井を想定するしかありません。

昔、近隣縁者との助け合いなしでは生きていけなかった時代には、逆にメンバーの人数が多少増えても持ちつ持たれつの関係の中で何とか生きていけたわけです。いざとなれば、自分に融通してくれたことが原因で食べていけなくなったと頼ってきた人の面倒をみることも可能だったのではないでしょうか。しかし、現在は近隣縁者との助け合いなしにお金で生きていく時代になってしまったため、よそ者の生活まで請け負うだけの余裕は持てなくなってしまっているわけです。カミナリ親父もまたしかりです。昔ならば、地域の顔役は「いざとなればお前の将来の食い扶持くらい俺が世話してやる」を背景に近所の悪ガキにカミナリを落とすことができたわけです。現在は、そこまで顔の利く人はそれほど多くなくなったということなのではないでしょうか。

つまり、最悪の事態に対して責任を負えるだけの背景がなくなってしまっているのだから、融通の要求をしても断られることが多くなるのは至極当然のことなのではないかと思うわけです。もちろん、最悪の事態を自己責任で請け負う覚悟の上で相手に融通してあげるという人も中にはいるでしょう。しかし、それをしてもらえなかったからといって、相手を責めるのは筋違いというものではないでしょうか。